サミットが「ザ・ウィンザーホテル洞爺」で

1997年11月17日(月)
北海道拓殖銀行(拓銀)破綻
 サッカー日本代表が前日の日曜深夜に対イラン戦で勝利し「ドーハの悲劇」から4年。日本が初のサッカーワールドカップへの出場を決めた瞬間を満喫し床についた。朝起きるとテレビのニュースが異常事態になっている。「なんか、拓銀が経営破綻(はたん)したようだ」と中継現場の戸惑いがテレビから伝わってくる。
 今回の北海道洞爺湖サミット(名称はレイク・トーヤ・サミットが適語な気がするが)のメイン会場となる「ザ・ウィンザーホテル洞爺」(虻田郡洞爺湖町)は、バブル崩壊と拓銀の経営破綻の荒波を乗り越えて、いま、北海道洞爺湖サミット(主要国首脳会議)のメイン会場として表舞台に再登場しようとしている。
 93年6月に開業した当初の名前は「エイペックス・リゾート洞爺」。当時の経営会社は北海道の「エイペックス・リゾート」(札幌)で、総事業費は700億円以上投じられた。建設と不動産関連を手がける同じく北海道のカブトデコム(札幌)と、この会社を資金面でバックアップしてきた拓銀の事業を象徴する高級リゾートホテルが小高い丘の上から洞爺湖を見下ろしていた。
 拓銀のずさんな融資とバブル崩壊を背景に、この両社は他の事業での融資をめぐり控訴合戦を演じ、その余波からホテル利用者は伸び悩み「エイペックス・リゾート」は98年に倒産する。その直前、97年には「ザ・ウィンザー・ホテルズ・インターナショナル」(東京)がホテル名を変えて運営にあたったが、98年3月18日にエイペックス社が破産し、ホテルは閉鎖に追い込まれた。
 拓銀の経営破綻とともにバブルの負の遺産の象徴として洞爺湖を見下ろすホテルの映像が常に使われた。

「ザ・ウィンザーホテル洞爺」再生の道
 それから2年半の間、破産管財人の管理下で空き家となり「バブル崩壊の象徴」としてホテルは残された。当時、洞爺湖から見上げると、逆光の場合が多く全体が黒く見えたこともあり、悪魔が黒いマントを広げて山頂から挑みかかってくるように見えた。まさにバブル崩壊の象徴的建物であった。
 その後、セコムグループの最高顧問である飯田亮氏がホテル再開に理解を示し、セコム損保傘下の不動産管理会社「十勝アーバンプロパティーズ」(東京)が施設を買い取り、内外装を変更し、引き続きウィンザーホテルズ社の運営で、2002年6月1日に再開業する。この時の買い取り価格は50億円とも言われ、初期投資額700億円との差額650億円は泡と消えた。まさに、バブル崩壊である。
 ウィンザーホテルズ社を経営する窪山哲雄社長は、石ノ森章太郎氏が漫画「ホテル」で描いた「藤堂マネージャー」のモデルと言われているホテルマンである。
 彼が再開業にあたり自らの持つノウハウのすべてをホテル経営に注ぎ込み高級リゾートホテル路線で再開した。ちなみに、ホテルの客室は洞爺湖に面してる側と内浦湾(噴火湾)に面してる側があり、それぞれ名称は洞爺湖を見下ろす客室がレイクサイド、内浦湾を見下ろす客室がシーサイドと呼ばれてる。2泊を別々な景観で楽しめるらしい(私はザ・ウィンザーホテル洞爺を外からしか見たことが無い)。
 2005年度に初めて単年度黒字を達成し、建設から12年を経て経営が安定してきた。波乱に富んだ丘の上のホテルが、来年の北海道洞爺湖サミット(主要国首脳会議)のメイン会場になる。
 周辺や北海道に住むものにとって、拓銀の破たんから10年。様々な地域でバブルの後遺症、その後始末が進められてきた。建設的な行為ではなく負の遺産の始末という後ろ向きの作業だ。それらの作業と同時進行した一連のホテルをめぐる負の遺産の処理がやっと終わり、北海道洞爺湖サミットの桧舞台に踊り出たのはうれしい。
 まだまだ各地で負の遺産への取り組みが行われているが「ザ・ウィンザーホテル洞爺」は「悪魔の黒いマント」ではなく「エーゲ海に捧ぐ」の「魅せられて」を歌うジュディ・オングのように、優雅に羽を広げて洞爺湖を見下ろすことになるだろう。世界各国の報道陣が丘の上のホテルを映し出し北海道洞爺湖サミット後も国際観光に大いに貢献すると思われる。
バブル崩壊の象徴だった衣を脱ぎ捨てて、北海道洞爺湖サミットの象徴としてイメージを作っていく。
 負の遺産の始末に日夜努力している人々に、不死鳥のようによみがえった象徴として勇気を与えてくれる今回の北海道洞爺湖サミット(主要国首脳会議)開催、そしてメイン会場の「ザ・ウインザーホテル洞爺」決定であった。

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2007.05.08 Mint