神戸市須磨区への憂鬱

特異な事件を普遍化するマスコミ
 何時も事件が起こるとヒョーロン家を集めて、「何て時代になったんだい」みたいな番組が横行するけど、もうそろそろこの形態やめにしたらどうなんだろう。
 少年法の見直しなんかに、この神戸市須磨区の事件をきっかけにフットライトを浴びせても、日々無関心であったマスコミがにわか勉強で突っ込みを入れても視聴者には解りづらい番組しか作れない。
 有事に議論をするのはいかがなものか、常日頃フォローアップしておいてこその「少年法改定の是非」であって、今度の神戸市須磨区の事件から賛否対決トーク番組を作っても、そんなのを見るほどこちらは暇じゃない。そもそも、今回の神戸市須磨区の事件が少年法改正の引き金になるような世論なんか願い下げである。
 一つの特異な事件を本来国民に平等で不変である法律に反映させようなんて、頭の悪さは何処から来るのか。リンドバーグの子息が誘拐殺人にあったために、誘拐を厳罰にしたアメリカの世論はヒステリックであると言える。法律は予期せぬ事態に無力である。そのため、事態の発生都度改訂をしていては条文国家になってしまう。アメリカがまさに、「スーパマーケットにライオンを連れてこない法」が有るのは、本来、マナーやルールである社会規範が明文化されなければならない多民族国家の宿命である。がしかし、これをそっくり真似して日本に導入しても根付かない。
 法の精神は不変である。しかし、法の条文が時代に乖離することはある。このとき、法の精神に戻って新しい条文を考慮するのが正論であろう。これは、憲法もしかり。この法の精神を忘れ条文のテクニック論議ばかりしていても事態は悪い方向にしか進まない。今回の神戸市須磨区の事件の憂鬱とは、まさに、江戸時代からめんめんと続いてきた「ある時、瞬間的に問題意識を持ったヒョーロン家」に変身する国民性。で、次の瞬間には結論を出すことなく別な問題意識のヒョーロン家になる。

会議5悪とマスコミ
 先人の明言に会議5悪がある。
1)会せず
2)会して議せず
3)議して決せず
4)決して実行せず
5)実行して責任とらず
マスコミの「問題意識」ってのは、この会議5悪と共通する。全て皮相的に捉えて報道するが結論は報道されない。まして、放送した側の責務みたいなものには無頓着。新たな会議室をせっせと作る。
非常に危険なのは、このようなマスコミの幻惑が通用する時代で無くなっているのにマスコミ自体が気が付いていない点にある。インターネットに代表されるように、個人がマスメディアに匹敵するメディアを自由に利用する時代。フォーカスのスキャナー画像が電子メールで飛び交う時代に、虚無な垂れ流し報道が生き残る余地は無い。
 「売らんかなの姿勢」とは、昔から言われているが、この点を明確にしてマスコミを批判している例が最近目に付く。ペルー大使から、はてはエラブ選手まで。写真雑誌の「売らんかなの姿勢」は明確で、これを社会の必要悪と容認してきたが、これも、今回で限界であろう。そろそろ社会は必要悪と容認してくれない時期に来ている。
 インターネットのようなメディアが個人の手に入ることは、とりもなおさず、より高次元のモラルが個々の利用者に要求される。この高次元のモラルが確立されるならば、インターネットは既存の「売らんかな」に取って代わるだろう。そして、情報洪水の中で、真に自分に必要な情報だけが選別されることにより、知らなくて良いことは知らないままで良いことが解るであろう。

情報化社会とは、身近な情報に触得ること
 このメッセージを目にすることが出来る人は、ま、男性か女性かは別して、海外の過激なアダルト画像に触れたことは有ると思う(著者もその経験を否定しない)。しかし、この時非常な空しさを感じるのは、この情報は「有っても無くても良い価値」しか感じられないからだ(むなしく無いとの意見を否定するものでは無いが)。どうも、他民族のヌードに触れるときにこの感覚が強く、ま、アジア圏ならさほどむなしさは感じないのだが(あ、話が逸れた)。
 実は情報とは広域に簡単に入手されることが目的では無く、身近なものが漏れなく入手されることが肝要ではないかと最近感じている。そのため、インターネットで新聞より早く火星からの伝送画像を目にする機能も便利だが、アメリカのアメリカ人のアダルトが見れる機能ってのは価値を感じない(ま、個人的見解ではあるが)。
 神戸須磨区の憂鬱とは、加害者も被害者も子供であり、地域の住民で有った点であろう。地域社会が健全に存在しなかった、この事実はまのがれない。ここにはインターネットで海外のアダルト情報に接している人も居ただろう(こだわっている)。がしかし、自分の生活圏で起こっている情報には盲目だったのではないだろうか。
 実は、真に必要な情報が得られず、閉塞間とむなしさ(筆者の場合だが)の情報にばかり接して、それで、情報化が進んだのだろうか。古来から人間は体の機能は変化していない。がしかし、道具を利用することによりその機能を何倍にも増加させてきた。槍は獲物を捕る手を伸ばしたし、車は足を何倍もの機能拡張した。ハッブル望遠鏡は目を格段に機能アップしたし、電話は耳をとてつもなく機能アップした。
 で、インターネット。
 テレネットコンピューティングなんて言葉は今時使わないが、確かに遠隔地の情報を格安で入手することは出来るようになった。がしかし、身近な忘れ去られてはいけない情報が、遠くからの情報洪水で隠蔽されてはいないだろうか。  事件を3年前の地震に根元を求める向きがある。要因として否定しないが、神戸市須磨区の憂鬱の根元は、他人に注目され不幸の本人意識を社会が持ったために、社会で必要な「身近な情報」に疎くなったのではないか。真に我々が情報化社会に求める物は、遠くの無関係な情報を追い求めるが故に、必要な身近な情報を失うことが無い仕組みである。
神戸須磨区の憂鬱は、実は我々の目前に迫りつつある。

Back
1997.07.07 Mint