拓銀の経営破綻から学ぶ

昨日悪口を言ったら
 北海道の5悪なんか前回持ち上げたら、その一角である北海道拓殖銀行(拓銀)が経営破綻で北海道の営業権を北洋銀行に譲渡するとか。あいた席に1社入れないと「北海道の5悪」は完成しないので苦慮している(笑い)。
 拓銀の経営破綻で株価が今年最高の上げ幅ってのも怖い話で、市場は利に向かってひたすら走っていると言うことで金融ビックバンで規制緩和された段階で日本的「情」による経営は成り立たないのかもしれない。
 4月1日に拓銀と北海道銀行(道銀)の合併が発表され、9月に事実上の合併解消に至った時にこの事態は予想された。また、10月に預金保険機構の1行当たりの上限幅が撤廃された時点で秒読みに入ったと感じた。大蔵省の手の打ち方がすべて「拓銀解体」に向かったシナリオの実施であることは見えていた。がしかし、年末の資金需要の高い時期を目前にして、11月17日の段階で経営破綻が宣せられたのは予想に反していた。せめて、年明けの1月15日頃と予想していたのだが。
 もっとも、常に月曜日ってのは拓銀にとって鬼門な訳で、サンデープロジェクトで田原さんが金融機関の株価低迷のフリップを出す度に、東京では月曜日に預金の引き出しがあり、この対応が日常化していた。特に、都銀最下位とは拓銀のことであると報道された翌日に20億円も預金が引き出されたとちまたのうわさ話になっている。
銀行も「金が借りれない」状態ってのが致命傷になるって事で、株価の急落が寿命を縮めたのかもしれない。

北海道経済への影響
 不謹慎にズバリ言ってしまおう。千載一遇の公共投資である。現在の拓銀の公表不良債権は9300億円、もう1兆円と呼んでもさしつかえ無いだろう。債務超過らしい(大蔵が調べていた)ので、足りない分は預金保険機構から流れてくる。つまり、単純に言えば「拓銀死して北海道に公金流入を招く」と言うことだ。すでに17日に6500億円、18日にも3000億円の日銀からの流入が有った。
 そもそも、拓銀の苦悩とは何処にあったのか、現体制がバブル崩壊により大量の不良債権を抱えたのは何故なのか、バブルに政府系金融機関として発足した経緯を持つ銀行が踊り踊らされたのは何故なのか。このあたりまで踏み込んで検証しなければ、また、いつもの北海道で終わる。また、小規模ながら道銀も同じ状況であった。たまたま、資金力が弱いだけ、バブル崩壊の影響は少ないだけで、ボディブローは拓銀と同等の比率で発生している。かたや、引き取り手の北洋銀行は発足が政府系の金融機関でもなんでも無く、小樽で無尽(あの、昨今の「ららら、無人君」てやつでは無い(笑い))組織として旗揚げしている。つまり、100年の時を経て政府系金融機関を民間の無尽組織から発した組織が吸収することになったのである。

北海道コロニアル・バンク
 太平洋戦争が終わり日本が米軍を中心とした進駐軍の統治下にあった時代に拓銀は進駐軍から「コロニアルバンク」(植民地銀行)と呼ばれていた。単に「拓殖」と「植民地」の誤訳なのだが。1900年に政府系金融機関として北海道の開発を目的に設立された銀行が、宗谷海峡を越えサハリンへも進出し主たる金融機関として活躍していた様は進駐軍には「コロニアルバンク」と写っても当然かのかもしれない。
 その後、北海道から預金を募って本州で貸し出す構造を揶揄する言葉として「北海道コロニアルバンク」は使われてきた。しかし、今一度検証してみると、拓銀がこのような経営方針を選択しなければならなかった北海道のお家の事情が見えてくる。
 基本的に銀行の機能は不特定のユーザーから資金を調達し、資金を必要としているユーザー(どちらも、得意先である訳で、ユーザーと言える)に貸し出す。金利を加えて戻された資金を預金者に戻すことに有る。北海道経済が公共事業依存型であり、産業構造が農業中心であるから、域外より流入する金は多い、これが北海道に蓄積されても、これを北海道内で再投資する産業構造が出来ていない。故に、投資が盛んな産業構造の有る新たな地域で貸付を行う必要が出てくる。
 今回の経営破綻で学ばなければならない事は2つ有ると思う。ひとつは、北海道の身に余る銀行ではなかったかと言うこと。これは学ぶと言うより背景である。他の一つは経営者の明示した方針が末端まで浸透しない時の巨大組織の悲劇である。以下、順を追って検証してみよう。

身に余る金融機関規模
 設立の趣旨も100年弱を経て変革するのだが、20世紀直前(1900年)に設立された拓銀が北海道の金融面で活況を呈していたのは、北の玄関口としてサハリン開発が行われた20世紀前半、敗戦によって雇用確保と資源開発に産炭地開発が進んだ50年後半と分けれられる。昨今のシベリア天然ガス開発までは、北海道は北の玄関口では無く、北のドンズマリであった。つまり終着点である。日本経済のGNP比4%、地域面積20%強は、広く薄い北海道の地域特性を表している。
 北海道開発は常に地域インフラの整備であり、誰も走らない道路が整備拡充され、加えて積雪地帯であるが故に、除雪経費が経常的に投入され、道路は産業そのものになっている。この積雪による除雪が無ければ、北海道の道路は産業の対象にならないのだが、この除雪費が経常的に地域に落ちるのが鉄道と違う所だ。
 農業についても、生産されたものの多くは本州市場に出荷され、農業所得として北海道に金が流れてくる。
 金について言えば、北海道は流入超過状態にあるのでは無いかと思う。個々の事象はあげることは出来ないが、212市町村の財政力指数は泊村をのぞけば100%を切っている。地方自治体は地方税の税収により運営されているのでは無く、国税の補填を受けてかろうじて運営されている。しかも、それ以外に謝金である地方債を抱えている。本来広い土地から得られる地方税である固定資産税が土地の高度利用が進まぬ故に低い点は有るが、そこに住む住民の納税だけではまかなえない地方自治が存在する。
 北海道は慢性的に金余り状況に有ったと言ったら突飛に聞こえるかもしれないが、少なくとも投資による産業再生産の道が無い金は金融機関によって集められ、域外に出ることになる。
 拓銀主導で始まった札幌市のテクノパークが一応の成功を収めた時、拓銀は自ら北海道産業構造変革の担い手になれると勘違いした。身に余る大きさが持つ弊害の中に、市場を自分たちが動かせるとの勘違いがある。NTTが民営化前後にJUSTモデムなる郵政省推奨モデムで電気通信に打って出てきたが、これこそ、自分たちが市場を動かせるとの勘違いである。その後、NTTデータにおいてもICカード、インターネットにおえるEC(エレクトリック・コマース(電子取引))と国内のみに目を向けた事業取り組みがなされており、NTTは日の丸特攻隊と国際的に揶揄される。リクルート事件での真藤さんの更迭がNTTが国際化に遅れをとった大きな要因ではなかったかと思う。少し話が逸れた。
 拓銀はある時期、北海道におけるベンチャー企業のインキュベーターたらんとして画策した事がある。拓銀総研(拓銀総合研究所:拓銀のシンクタンク)に情報産業の中心地としての北海道を描く作文を作らせて、ベンチャー企業への投資を積極的に事業品目にしていった。同様に、頭脳立地構想にも積極的で、ハイメックス(高度医療都市構想)なんかにも積極的に主導的役割を演じてきた。
 大きすぎる企業の常として、事業方針の変革には動きが遅い。札幌市のテクノパークでも拓銀が演じることが出来たのは産業施策ではなく、建設に関わる融資が中心である。確固たる産業興しのノウハウは今も、当時の拓銀にも無かった。故に、マネージメントワーク(株)が倒産した時も、再建の手だては生み出せなかったのである。
 北海道を情報産業基地にする事は可能であった。コーディネイトする組織が有れば、の前提が付くが。このコーディネイト役をかって出た拓銀には情報処理産業に関するノウハウが欠如していた。札幌テクノパークの共同事業計画は通産省のシグマ計画であり、テクノパークの共同利用コンピューターはVAXで、そのOSがVMSってのは笑い話で済まないのである。(何故、笑い話かも解らない人間がコーディネイトしていた訳だが)
 北海道経済が必要としていた規模より大きかった故にあふれ出し、都市銀行として本州そして海外に出ていかざるを得なかった拓銀の宿命が有る。しかし、北海道経済を4%経済から4.1%へ4.2%へ、ってのも金融機関として選択の一つであった。昨今の「共生」の考え方である。

総身に知恵がまわりかね
 ベンチャー育成と言っても、その施策はかなりリスキーである。そのリスクを回避するための情報が不足したことが方針と実施された行為とのギャップとなってしまった。北海道を情報産業の拠点として開基100年から再スタートの新北海道像として描くのは間違っていない。アルビン・トフラーの「第三の波」は的確に時代の流れを読み、示唆した名著である。
 太平洋戦争の末期に中島知久平が富嶽の構想を打ち出した時に、当の中島飛行機の技術者たちは特に無理な注文だと思わなかったそうである。総トン数130トンの6発爆撃機。それまで、20トンそこそこの4発爆撃機しか経験が無く、しかも、エンジンは2000馬力に四苦八苦していた時代の5000馬力では、今の常識から判断すれば無謀な計画である。にもかかわらず技術者たちが数年先に実現可能と考えたのは何故か。それは、航空機技術改革が急激に進展した時代背景にある。20世紀最大の発明と言われる半導体。それを利用したコンピューターの発達は、まさに時代背景と技術革新がそのようなテンポにある時代に我々が生きていることを証明している。数年でハードディスクの容量を計る単位が内蔵メモリーに代わり、CPUのクロック周波数はあっという間に50倍にもなっている。手元の10年前のラップトップパソコンはMS/DOS3.1をosとしてメモリー640K(これでも、320K増設しているのである)CPUは4MHzのCMOSである。それが、今、CPU200MHz、メインメモリー64M、ハードディスクは2Gが標準である。このように技術革新は時代背景を背負いながら一気に進展するタイミングと徐々に進展するタイミングを繰り返している。1985年からの10年間の情報通信の変革は、まさに時代を的確に読む者にとってチャンスであった。
 がしかし、それには情報を収集し分析し的確な判断を下す必要がある。残念ながら拓銀が目指した方向は旧来の土地投機を中心にしたベンチャー興しになってしまった。
 この大きな要因は拓銀には金融機関として力量は有るが、北海道経済を変革するまでの情報収集分析力に欠けた、それを補わなくてはならないとの自覚もなかった事があげられる。
 「食の祭典」の失敗、「新長期計画の汚職騒ぎ」、ベンチャーに後込みする要因は山ほどある。にも関わらず前へ進む者のみが真のベンチャー企業であるが、資金面での支援が得られない状況では、公共事業依存、支店経済の悪弊から抜け出すチャンスを失ってしまう。
 現場では「銀行は銀行らしく安全な投資に専念すれば良い」が圧倒的多数を占め、最も危険な土地投機に資金を流し続けた。これは、たぶん、拓銀が北海道を変えるとまで意気込んだ経営層の思惑が末端には理解されていない結果であろう。
 今は時期では無いが、拓銀総研の石黒氏が、今日この時を振り返って発言する機会が有れば着目したい。
 たぶん、経済を動かすには政治との連動が必須なのが資本主義であり民主主義である国家に必須の条件であろう。五味川純平氏の「戦争と人間」では、経済が政治を動かし政治が戦争を行う様を描いている。同様に、公共事業依存型経済の北海道が公共事業に依存しなく経済になるためには公共事業の1種である政治的手法を導入しなければならないであろう。拓銀の間違いは巨大で有るが故に、すべてが自分たちで可能と判断したことである。これは、「池の中のかわず」である。先のNTTにも同様の体質が見え隠れする。

さも北海道的であった拓銀
 わずか120年前には原生林であった北海道を少ないなりに560万人が生活する土地に開拓した先人の努力は今更ながら頭の下がる思いする。その中で北海道開発は国民のコンセンサスとともに、アメリカの西海岸のように潜在力を秘めている地域と思われている。がしかし、その期待を受けて、4%経済に10%もの公共事業を投入してきた国民の信託に応えていないのが今の北海道かもしれない。北海道経済はジャンボジェット機の後輪に例えられる。経済が上向いても最後に地面を離れ、下向くと最初に着地する。
 この体質から抜け出すには、後追いの経済構造から脱却しなければならない。自ら歩いた後ろに道が出来る。人の歩いた道を後から歩いていては真の意味で、日本における北海道の役割は達成できない。
幸いにしてその芽は有る。崩壊を極めたロシア経済が短期間で立ち直りつつある。ルーブルはもはや紙屑では無い。新たなアジアの貨幣になりつつある。いまこそ日露の窓口として北海道が担う役割は大きい。
 北海道経済が拓銀を支えられなかったことを考えると、この葬式を済ませた後は、我々個々人が他人任せにせず、一人一人北海道を背負っていく気構えが必要であろう。
 その意味で、旧来の悪弊は「拓銀ととも去りぬ」としたいものである。

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1997.11.19 Mint