改造エアガンでも国際的には兵器

マスコミの不勉強がもたらす報道
 基本的にイタネで流れる情報に対して既存のマスコミは「裏付けが無い情報は風評であり、我々は真実に迫って、責任もって報道してる」と言う。たしかに、インタネで流れる情報は興味本位で憶測を含む場合が多い。でも、それを承知で情報を得る機能がインタネにあるのは事実だろう。それを広義の情報リテラシーで補うのが情報化社会の形成に不可欠であり、マスコミは既得権益を守りたいので国民の情報リテラシー向上には非常に不熱心である。
 極論すると、真実の報道よりも噂の報道に商業的価値(ま、金儲け)のネタがあると考えた週刊誌群に対して、何をもって、報道機関としての優位性を持ちえるのか、この命題に現在のマスコミは答えていない。
 で、先の改造エアガン事件の報道を見ていると、何も解らないで表面だけを追っているマスコミの姿勢がニュース番組から伝わってくる。日本の法律ではたしかに銃器を保持するのは法律違反になる。けれど、日本国政府が認めているように自衛権は国家として歴然と存在する。だとしたら「自衛の武器」は国民に認められる権利だろう。武器とは何に供するのかを考えると、ある側面では「自衛の武力」は個々人に認められた権利だって考え方が必要になる。
 国民が自衛のために武器を持つのを否定しないのが現在の政府の考え方なのだ。小泉純一朗首相が何を考えているのか全然伝わらないが、基本的に日本は国際社会の一員として担う責任が多々ある。その意味で兵器の理解は国際社会での自律の試金石だと思う。もっと兵器を勉強する必要があると思う。
 例えば僕が見ていたテレビ報道番組なのだが、「口径の長さから殺傷能力がある」って報道があった。弾の口径だけで何が決まるのだろうか。銃は弾の口径と速度の関数によって貫通能力が決まるって高校の物理で習う知識すらマスコミの現場の人間には無いようだ。そもそも銃身が長いタイプの銃を指してるのだから、今回の改造エアガンの問題点は口径では無く銃身長なのだと自らの間違いと気づくべきだ。
 正直言ってヤクザのチャカと猟銃との区分けも出来ずに「改造拳銃」って改造エアガンを呼ぶマスコミの知識の無さにへきへきしている。

銃器に対する理解
 銃器ってものに接する機会はどれほどあるだろうか。
学生時代に国体のエアーライフル競技の地区代表を狙っていた身としては競技としての射撃と遊興の場としての射的の違いは解っている。実際に北見の税務署がバイト先に来て「射的課税」をめぐって経営者と議論していたのを思い出す。結局、遊興場って判断は無かったのだけれど、基本的にスポーツ射撃は当時は認知途上だったのだ。
 そこで働きながら自分自身がバイト中の空き時間を利用して肘支えで180点、立射で150点の成績を打ち出している。もちろん、競技スポーツって感覚だった。
 この時代、北見でアルバイト、しかも「射的」なんて差別を受けながらバイトしてた時に出会ったのが松山千春なのだけれど、ま、本論からは外れるのでこの話は後ほどってことで。
 で、僕の銃器との接触はアルバイトでのエアーライフルに起因する。実は当時に大藪春彦さんの小説を沢山読んで射撃に触発されたこともある。が、基本的に競技スポーツとしてのエアライフルって意識しかない。
 「殺傷」って言葉が先行しているが、正直言ってどの口径でどの銃器に殺傷能力があるのだろうか。アメリカでは22口径程度では自衛で攻撃的銃器では無いって考え方のようだ。そもそも銃器の破壊力は弾頭重量と初速の問題が関数になる。沢山ある銃器の中で「重い弾をいかに高速に撃ちだすか」が銃器の破壊力、そして殺傷能力につながる。その意味では「殺傷能力」は人命を侵す度合いって意味なのだろうが、ま、正直言って「おもちゃ」にめくじらたてているとしか思えない場面が多い。
 基本的に「殺傷能力」は死んで解るってことだ。だから未知の可能性を裁判で「殺傷能力」って感覚はちょっと武器の勉強が足らないのではと思う。解っているマスコミは「殺傷可能な改造エアガン」と呼んでいるがこれは正しい。
 単なる改造エアガンでは何を改造したのかが伝わらない。改悪も改良も改造なのだから。

何を使っても「殺傷」は可能
 インターネット(インタネ)による情報てのが目くじら立てられるようなので、あえて詳細は開示しないけれど、基本的に個人が入手可能な「殺傷」兵器は沢山ある。そもそも「首をしめる」って行為も殺傷である。これは何の器具が無くても出来る。
 銃器に限れば弾を高速で打ち出して人体に当てれば「殺傷」可能だ。これって、強力なパチンコでも可能だ。ゴムを強くしてそれこそパチンコ玉を相手に当てれば殺傷一歩手前まで出来る。つまり、改造拳銃とか改造エアガンが、ことすら問題なのでは無く、基本的に人間が人間を殺す手段は多々ある訳で、別に改造エアガンだけに集中する感覚は外してると思う。高層ビルの屋上から先のパチンコ玉を落とせば、命中精度は別にして下を通る人間を殺傷できる。では、パチンコ玉を取り締まらないのは何故なのか。
 スポーツとしての射撃なんてほとんど理解されてないと思うけれど、実際、ストイックに照準を構えて練習していたのが僕だった。バイト先で営業が終わったあとの閉店処理でも銃器をガンロッカーに運んで収めた。この時、必ず薬部(エアーライフルには無いので、装弾レバー)を空け、それを確認してから机と繋がっている鎖の鍵を外すことをきつく言われた。
 もっとも、そのエアーライフルですら銃身をつかんで振り回し相手の頭に銃座を振り降ろせば十分「殺傷能力」があるのだが。

武器を知り、平和を語る姿勢が必要
 逆説的だがやはり真実だと思う。
 例えば常套句に「唯一の被爆国日本」って言葉があるが、これを丸呑みしてはいけない。マンハッタン計画で原爆(プルトニュウム原爆&ウラン原爆)を作る過程で製造に携わった工員が「世界で初めて被爆」したのだ。つまり、最初の被爆はアメリカ人であり、現在の核拡散を考えると日本人が唯一の被爆国民なんて感覚は「日本の常識は世界の非常識」のジャンルに分類される。「唯一の原爆被投下国民」が正しい。その後もアメリカを始め多くの核保有国では製造に関わる工員の被爆は繰り返されている。
 このような例は沢山在るが基本は勉強不足と言うか勉強の忌避にある。銃は怖い、だから嫌い、銃について学ぶなんてナンセンスって発想が蔓延してる。これに戦後教育の最大の問題点である「教育を指導する」姿勢の問題だ。遠ざけておけばそのような状態にならないと戦争を研究(体験談では無くて、何故戦争になったか)する姿勢すら回避されてきた。「軍部の暴走」の一言で片付けられる。だから、武器に関して何も知らない国民が育ちヒョーロン家が改造エアガンについてトンチンカンは話を語ったりする。
 残念なことにアメリカで銃の誤射で亡くなった留学生の問題はアメリカでは社会の問題と捉えているが、日本では個人(加害者と被害者)問題と捉える。日米の社会構造の違いが顕著になった事件だった。アメリカでは社会の問題として「銃の無い社会」を考える。日本は犯罪防止の観点から法規制の問題として「銃の無い社会」を考える。このスタンスの違いは、実は2B弾と銀球鉄砲で育った我々には良くわかる(なんせ当事者だったのだから)のだが、今の日本って、2B弾すら無い。だから、自爆テロって「テロってヤーネ」になる。2B弾の煙を見ながら投げるタイミングを失って指に痛みを感じた者(わしじゃよ)は自爆テロの本人の痛みが少しだけ解る。
 平和は願って実現するのでは無く、平和を戦い取るって感覚が国際社会の「常識」なのだ。
 この痛みを知るがスキップされて、何でも痛いでは議論は先には進まない。
 改造エアガンでは無く、今のエアガンでも十分殺傷能力を持てる方法については書かないよ。各自研究したら良い。ヒントは既に書いた中にある。

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2005.10.14 Mint