「規制緩和」の一人歩き
規制を緩和すれば、日本経済は発展し、バラ色になるのかなぁってのが最初の疑問。それよりも規制している側に規制緩和のアイデア募集ってのがいただけない。廃止してもなんら利権に影響しない虫干し的見直しでお茶を濁されるに決まっているのだけれど、ま、「規制緩和を検討した実績主義」って、この弊害こそが駄目な日本経済を根元から下支えしてる訳で、ここにメスが入らなければ、なの意味もない。
そもそも規制を緩和して「自己責任」に委ねる風土が日本に馴染むのだろうか。?
お上の規制を要求してきた国民風土が日本にはある。何か危険を伴うものが派生すると公的取り締まりに委ねる風土である。昭和の戦争において国家総動員法によって統制経済になった時代の残党が残っている。それが、日本人の心に残る「お上は規制の義務を負う」だろう
民主主義になって、国民が規制をお上に求める方法に替わったが、基本的に規制が好きな風土は変わらない。日本の風洞は農耕民族に由来するが、最近の農業では「農政が悪い、農協が悪い、天気が悪い」を叫ぶことが従事であり、真に作物を育て消費者に望まれる農業従事者たる人はごく少数である。
実は、ここに日本人の基点があるような気がする。
責任追求は全て他に求める姿勢である。何か弊害が有ったときに犯人探しをする。原因に結果の責任を被せる。
よそ見運転で電柱に激突した場合と歩行者を跳ねて怪我をさせた場合で、本来「原因」は同じである。また、この場合原因は人間の行動になって表れるのだから、その行動の原因も遠因として考慮されなければならない。
しかし、結果が重大である場合にのみ、原因が「よそ見運転」として責任を追求される。
この国の風土では「よそ見を防ぐ」まで思考が回らないのである。で、繰り返され、別な人間がまたやり玉にあがる。端的な諺「明日は我が身」が染みついている訳だ。
こんな、風土に「自己責任」は馴染まない。誰も、「自己の中に原因を求めようとしない」。であれば、客観的に原因を判断する尺度として、規範としての規制がはびこるのであろう。
自己責任前提の規制緩和が本質
資本本位社会ではビジネスはリスキーである。上記の日本の風土ではビジネスは「既得権獲得競争」でしかない。お上が作ったマーケットにより早くアプローチすることがビジネスであり、起業である社会なのだ。そこには、自らマーケットを作るビジネスは少数である。決して、無いとは言わないが、本当に少数である。
規制によりマーケットニーズに対応できないジレンマを感じているヴェンチャー志向の起業かが何人居るだろうか。規制緩和を国策としても、緩和による新たな「既得権」争いでしか無いのではないだろうか。だとしたら、国民のための規制緩和でもなんでもない。
既得権獲得競争を起こさない規制および規制緩和を考えなくてはいけない。そのためには、国民自らが戦後50年、もしくは、明治新政府から連綿と続いてきた風土を顧みなくてはいけない。新たな視点は
「国際的視野による価値観」である
アプローチの手法としては、市民ニーズを起業するための現行規制の洗い出しと撤廃にある。官僚が廃止する規制は条文と時代性が切り口であり、市民ニーズから派生しないのは明らかである。
また、「規制の廃止」だるから、自らに降りかかる規制が無い故の反動は、自ら受けて立たなければならない。その組織として別途民間ベースの共済組織を民間ベースで(出来なければ外資ベースで)設置する必要があろう。この両面からのアプローチで真の市民による規制緩和、表現をかえれば民主的日本風土改造が可能になると思われる。