素人が法律を作る。脳死法案審議の危うさ

議論の土俵が有ったのか?
 議論するにも対象になる事柄の理解が共通の土俵としてなければ、 いくら民主的に議論を重ねようとしても無駄な事。そもそも、このような法案の 審議が国会に馴染むのか、時代は今それを法律として決めなければならない事態 にあるのか。このあたりの入り口論をしっかりやらなければ、国会の立法府とし ての機能が地に堕ちる結果になるのは明白である。
 そもそも、人の死を法律で定めようと思うことが不遜であって、国内での臓器 移植、ひいては臓器の取引にお墨付きを付けるかどうかの上っ面の論議しか派生 していない。
 臓器の提供は唯一最後の本人の意思に任されるべきであろう。段階的に進める ならば生前脳死を死として同意した人に適切な臓器譲渡を可能にする法案を制定 し、しかる後、世論の動向に応じて修正を加えていけば良い。少なくとも都会に は覇気のない、どう見ても健全な精神の元生きているとは思えない「精神死」予 備軍がたむろしている。人間の死とは、器官の不都合による機能停止ではなく、 もっと精神に立脚したものであることに着目するのが立法府の責務であろう。
 日本国憲法にうたわれている、「健全な生活を営む権利」とは、病気を患わな い生活の意味では無い。立法府たるものが、車のスパークプラグの故障は車を廃 車にすべきかどうか、と言ったような卑俗な議論をしているように見える。


自己責任を阻害する法律の規制緩和を
 国民から統治を預託されているのでは無い。社会が特定の事象につ いて成熟するまでに様々な亜流が出てきて社会が混乱するの防ぐ意味で法律によ る規制がある。時代は流れ変わっていくものであるから、先に法律であってもの が、モラルに変化し、やがて、常識化していく事柄は沢山ある。そればかりか、 当初見込んでいた亜流が実は本流となり、社会的に認められていた規制が時代に 逆行する時代に変化する場合もある。
 特に「脳死」について言えば、現在の医学でも解明が進んでいない脳について 可逆不可能な損傷が明確に定義されていない現状で人の死とするまで容認されて いるだろうか。例えば極論と思われるかもしれないが「低体温療法」は脳死を人 の死としたら、まさにキリストの復活同様に、死からの生還ではないのか。
生還可能であるにも関わらず「死」を宣告し、ますます可逆不可能(臓器摘出に よる、確実な死)におよんで良いものであろうか。現在の医学の進歩は科学技術 論議として脳死を語れる段階にまで来ていない。


法は人を活かすものでなければ
 法律がどちら側に制定されるにせよ(現時点で私は投票結果に触れ ていない)、強制的な死を措置したり、あたら臓器移植で助かる生命をないがし ろにしたりでは、法の精神が生きない。
 生体間移植は治療の方法として社旗的認知にはまだ至っていない。このような 情勢の元、制定可能なものは、個人の自主的意志を尊重する、余計な規制が入り 込まない法の制定であろう。
 脳死を自らの死として、臓器を提供する人が居、臓器の提供により延命可能な 人が居、しかし、医師が犯罪として罰せられる危険を冒さないよう、手が出せな いとしたら、これこそ、解決すべき具体的課題である。
 3者の意志に沿った措置が公認されるような社会制度作りこそが立法府たる国 会に国民が預託した権利であり義務ではないのだろうか。
 脳死が人の死かどうかを議決する前に、どのようにしたら現状の課題が解決さ れ、社会が健全に発展するのか。それを具体的に法律という方法論で解決するの が本筋ではないか。多くの国会議員が説得力ある自らの言葉で、何故賛成したか 、何故反対したか語れない現状では、評決をとる行為そのものが、はなはだ国民 不在の儀式である。立法府であるから立法するのでは無い、社会の課題を解決す る方法として立法による方法も、有るだけのことである。
 国の進路を左右する議題が山積みの現状で、議論のための議論(にすらなって いないように見える)、立法のための立法府でしか無いのでは、国民の政治家不 信は募るばかりである。決して「政治不信」では無い、政治家不信なのである。


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1997.04.24 Mint