住民投票が陥る罠

全員が賛成するものは甘い
 ネタは朝日新聞の記事なんだけど(苦笑)、全員参加型の議決に潜む国を滅ぼす愚案の話。と言っても、あたりさわりの無い「脳死法案」とか「サッカー籤」とかしか立案出来ない立法府もこれまた問題山積のように思うのだけれど。
 自分の痛みはさることながら、他人の痛みも解る人間には、他人の生命・財産・生活を阻害する行為に総じて否定的である。とりあえず、他人に何かを強要するには、相当の説得力有る考え抜いた意見が必要であるが、これを表明する必要が無ければ、考える必要も無い。だから、他人に何かを強要するエネルギーたるや莫大なもので、方や、何も強要しない人間は楽できる。
 真に語られなければいけない命題に背を向けていても1票になるのは民主主義の議決方式の多数決のルールとして避けて通れないが、しかし。同じエネルギーをそそぎ込んで考えた末の1票の場合合理的説得力を持つが、そうでない場合、非常に心情に流れた1票となるのも否定できない。
 改革が必要な時に尻込みし、モラトリアムに次世代にツケを回すのは戦後の社会で定説になっていた。誰も今の生活を犠牲にしたくないし、避けられるものなら、先延ばししておこうってのが、現在の国、市町村に蔓延する財政破綻ではないのか。甘い菓子を食い過ぎた先の世代の後始末が回って来た時代な訳だ、昨今は。


利に生きても義に生きない日本
 ペルーの青木大使を賞賛するつもりはさらさらない。しかし、彼が毅然とした態度をとり続けたのは当然といえば当然だが昨今の日本人の態度と比べると秀でて見えるのは、有る意味で全体のバイアスが変化しているのか。
 阪神大震災の頃からのボランティア。これにも、新しいうねりを感じる。つまり、彼等は「利」に生きているのでは無い。さりとて義に生きているのでも無いが。
 彼等の世代背景を考えてみると、教育の現場で先生側に戦後生まれが台頭し、また、女性教職員も台頭し、教える側が平和一辺倒の価値観から、経済成長後半世代が管理職になり、やがて、右肩上がり経済でも無くなり、受験競争の現実、つまり「利」に生きる価値も薄れたあたりではないだろうか。
教育が「何故教育が必要か」を教える側が失った時代に、教わる側は自らの価値観で成長していく。そんなうねりが若い世代に培われているのかもしれない。
 この世代の親たちの世代はどんな世代であっただろうか。戦後新教育制度の元、全てが手探りで何も規範が無かった時代に、自ら規範を作ってきた世代であろう。全共闘、安保(60)反対運動と、結局体制に組み入れられて、今人生を振り返ると、一生を通じる確たる信念を持ち得なかった世代であろう。
 この親の世代を目にして育った若者に、横並びでない自己が育つのは当然の結果かも知れない。
 今から予言しておこう、最悪の世代を経て1975年以降生まれの世代が日本を良くも悪くも動かす時代は目の先に来ていると。彼等を説得するのは「利」はない「義」である。

世代の垣根
 次世代を創るのは現世代である。学校のように1年単位の世代のバトンタッチではなくて、家庭を基盤にした1ジェネレーション単位の次世代である。
 垣根は近辺の5年間あたりにあり、それを30年程飛び越えた層に同じ様な志向の世代が存在する。先の世代の前世代と言えば、1945年前後に生まれた世代である。がしかし、このベビーブーマ世代は、猛烈経済成長時代をに走り抜けてて去ってしまい、その後には何も残せなかったと思う。
 ブルドーザーは荒れ地を平地にすることは出来ても、そこを豊かな大地に変貌させるだけの力は無い。この世代の夢が小学校の学級員的民主主義であろう。多数を集めて正義とする。これは違う。
 施策はそれを深く考える人に信託されてこそ、効率的に立案され効果を生む。この信託のプロセスが代議員制度の根本である。全員参加の全員議決が必ずしも社会全体の利益を形成しないのは、先に述べたように、全員に心地よい施策は次世代に、未来に、ツケを残すばかりだからである。時は戻れない、であれば今決めなければいけないことは今決めなければならない。
 自らの「義」を求めて行動する世代の前世代は、山ほどツケを回してくる、同じように順繰りにツケを回してくる世代に「No」と叫ぶ世代が育ってきている、彼等は「老人福祉」などは切って捨てるかもしれない。世代が残したツケを次世代が払う方式すら破綻しつつあるのだから。
 いまさら「老人福祉」で「住民投票」しようがしまいが、未来にツケを回した世代とは、「義」に生きる世代は断固として戦うであろう。「利」に生き、終焉を迎えつつある世代に「理」は無い。


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1997.05.01 Mint