トップの決断、時のアセスメント

時のアセスプロジェクト
 北海道庁のホームページのアクセス数が伸びているらしい。他の同業他社(ま、都道府県ですね)からの「時のアセスメント」への閲覧が多いとか。
 時のアセスメントは堀知事が長期に渡って構想段階のままだったり着手されたが進まない公共事業を見直そうとの発想で取り組んでいる事業。たまたまその一つプロジェクトの人間とディスカッションする場面があったので、多少情報リークになるが、その様子を。
 役所の常として、自ら手がけた事業を自ら見直すのは不得手なもの。今回の時のアセスプロジェクトでは当該部局員では無く、他の部署のメンバーがタスクフォース的にプロジェクトを組み、最終結論を導き出す仕組みになっている。事実上「辞める」方向で議論をすすめる布陣と見て良いだろう。
万が一、部局を越えたプロジェクト故に、画期的な展開方策が出てくる場面もあるかもしれない。これはおおいに望むこと。当事者で無いユニークな発想には大いに期待したい。

「止める」と言えない下っ端
 当然のことだが、事業を辞めたり、手を引いて撤退するにはトップの決断が必要である。組織は目的を達成するために組織されており、目的を反故にするために組織されてないのだから、自己評価で「辞める」って結論は出てこない。今回の時のアセスメントプロジェクトメンバーと話をして驚いたのは、プロジェクトの内部意志決定でも「辞める」って固まってないこと。
 無理に言わされた面もあるのだが、「時のアセスに引っかかったら、10中8,9、辞めろってトップの意志表示だと受け止めたら良い」と言ったら、そらみたことかと何を言うんだ派にプロジェクトが割れてしまった。その前に、画期的なウルトラシーを生み出すブレーンストーミングをしたかったのだが。
 彼らは役人だなぁと思わせるのは、いかに辻褄合わせて撤退するかを考え始めていること。民間なら「時期尚早」でストップがかかる事項は多いのだけれど、どうも、時期尚早って説明は役人は嫌うようだ。素晴らしい構想である。だが、それが進まないのはカクカク・シカジカと理由を上げてもそれは言い訳でしか無い。
 そもそも、進まない理由が明確になるのあら、その障害を克服する手段を考える余地が出るのであって、とうてい克服不可能な事由を並べて撤退するのが説得力ってものだ。

道民の利益にかなうかの視点
 ここも、難しい。本来、道民の利益にかなうと思うから企画した事業であり、議会答弁でも事業の趣旨がこの点にかなうかどうかがポイントである。しかも、過去に置いては道民の利益にかなうと判断された(集団責任において)事項だから、あえて、これは道民の利益にかなわないとはレポートできない。
 役所の論理ってのは難しく、「見直し」は進捗を遅めにすること、「延期」は来年度には予算確保すること、「継続」は誰か後任者に下駄を預けることになる。民間企業の経営の観点である「投資し、回収する」の観点に立てば、不採算が予想されるから辞めるってのは説得力有る。しかし、役所は投資し回収する機能ではないので、この点が非常に不明確である。
 民間が出来ない部分を担うのだから、基本機能はコストの垂れ流しである。これが悪いとは言わない。社会を強者・弱者が共生できる仕組みにするためには、民間が出来ない機能であるコスト垂れ流しは必要であろう。国防なんて行為をローコストであるから民間に外部委託出来ない(まてよ、これも出来るかもしれない)と思われる。
 時代なんだよね。それは誰もが納得する。まさに「時のアセスメント」なのだから。

優柔不断が道民の利益を奪う
 映画にもなったカールセーガンの「コンタクト」。原作を読むとこの異次元への旅行を可能にする宇宙人から送られた設計図をもとに組み立てられたベンゼルは十勝の大樹町あたりに設置される。
 大樹町は北海道の新長期計画で航空宇宙産業基地構想の舞台として総合航空公園が整備されている。今年からは日本版無人スペースシャトルHOPEの自動制御の実証実験滑走路も供用が始まった。
 かたや、苫小牧の東、厚真町に広がる苫小牧東工業団地は、迷い込むと迷子になるほどの荒涼とした原野のまま残されている。日銭200億(だったかな)の借金の金利の積み重ねを続けている。ここが開発が行われる前までは放牧中心にした酪農地帯であった。つまり、生産の場であった、今は単なる原野である。せめて、用地販売が行われるのを待つ間、農業試験場的な利用をしていれば20年の間に新しい産業構造を構築する余地は有ったのではないか。
 なにもしない、これが、どうにもならないツケを先送りしただけである。何時か誰かがこれを始末しなければならない。しかし、なにもしない過去の当事者は責任を追及されることもない。
 むつ小川原も同じである。何故、負の遺産は形成されたか、これはジャーナリストの面々に頑張って貰いたいテーマである。

戦後は終戦の勅諭から始まった
 「朕、帝国の現状と世界の情勢に鑑み、もって、太平をひらかんと欲す」これが、昭和20年8月15日正午に放送された終戦の勅諭である。(若干、表現が違うが)。実は10年ほどまえにこのコピーが国立文書館か国立図書館から流失した事件があった。
 実は、このコピーを持っていたりする(笑い)。
この草案を作った裏話が本になっているが、裕仁天皇が自ら手を入れたって部分に、本当に原稿用紙の欄外に記載がある。玉印も本物らしい。この勅諭が放送された(録音は前日の夜中であった)直後の割腹自殺を遂げた阿南大臣の署名と捺印もある。
 これを見ると、いかに「辞める」ってのが大変な決断なのか解る。
 ここに署名捺印した各国務大臣の気持ちはいかばかりのものだったのだろう。終戦(当時は、敗戦との表現が適格だったろう)は、これしか方法が無いと納得してのものだろうか。
 よほどの情報音痴で無いかぎり、昭和17年6月のミッドウェイでの敗戦から、和平のシナリオを作らなければならない事は解っていたと思う。中島知久平などは、昭和17年の後半にはそれに気が付いていたと思われる。
 それから、3年、誰も「辞めよう」と言わないまま、インド侵攻目指したインパール作戦なんかが実施される。誰も「辞めよう」と言わないが故に多くの人命が失われた。
 そもそも、現在の役所の部局長クラスってのは学生運動華やかな頃に全てをブッコワシテ新しい日本を作る派だったのではないか。時のアセス対象になった事業を「知事が頑張れって言ってくれてる」なんて解釈、何処から出てくるのか。辞めるお膳立てを整えているのに、シナリオを書けないのなら負の資産を子孫に残すだけである。
 この終戦の勅諭のコピーを「壁に貼れ!」と、プロジェクトの参事に託してきた。

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1998.06.25 Mint