税金はなんのために徴収されるのか

税金は何のために徴収されるのか
 カムイ伝なんかをひさしぶりに取りだして読んでいる。
武士が権力で統治していた時代、税金は農民が年貢を納める論理的根拠は何処にあったのだろうか。何故農民は年貢を納めなければならないかの説明は無く、納めるのが当然の時代背景と描かれている。
しかし、21世紀を数年先にしている現在でも、結局税金を何のために納めるのかの論理的説明は乏しいと思う。憲法に納税の義務が有るからってのが半数の理解ではないだろうか。
どうも、国民の義務と権利が連動していなくて、国民に納税だけが課せられているのが現実ではないだろうか。ま、戦後の教育は「国のため」とかのナショナリズムを強力に排除したために、国家の権力に対する国民の監視と言うか関心が薄れている。にも係わらず、しっかりと納税はしているのだから、これくらい権力者に都合の良いことはない。現代の日本は年貢は納めるが一揆の無い藩なのだから。
 本来、公共の利益を向上させるために、その実行権を預託されているのが国であり、立法府である。その手先が多くの行政機関である。その預託の担保が住民が納める税金の意味である。がしかし、行政には預託された真摯な意識が無く。預託した側にも特にその用法にチェックを行う意識がなく、まさに、何故税金は納められるのかの理論武装が崩壊していると言わざるを得ない。
人間が集団で社会を構成するとき、共通に発生する業務を他人に委託し、その対価を商品経済の基本である通貨で支払う制度は、日本ではここ120年程の歴史であろうか。古くは経済の基本は金銭では無く米によって計られていたのだが、米以外の商品生産(綿とか絹)が活発になるにつれ商品経済、ひいては貨幣経済が米中心の経済にとって替わった。
全段を米本位経済と呼べば後者は貨幣本位経済と呼べるであろう。
 閉鎖的農業生産である米では開墾から収穫まで、そして年貢を納めた後の消費まで小規模な範囲でクローズドであった。商品作物は自ら消費するのではなく、流通によって貨幣に変換される作物である。
 一方では年貢のために米を作付けし、他方では武士によらない市場経済に向けての商品作物の生産と、江戸時代の農業社会の二重構造が存在した。この時代は農地は領主からの借り物であり、その地代としての年貢と年貢には理論武装があった。年貢を納める事により領主からいくばくかの行政と言うフィードバックは求めていなかった。
 昭和の後半で民主主義の時代に入っても、納税はこの地代的側面のまま徴収されてはいないだろうか。多くのサラリーマンは給与天引きの年貢に無関心である。

平成の大馬鹿、平成10年度所得減税
 ま、コンピューターシステムのおもりをしているからこそ解るのだけれど、サラリマンの所得税減税がまったく実感が沸かないのはあたりまえである。通常の給与計算を行い、発生した所得税を控除限度額まで徴収しないのが今回の所得税減税の方法。これは2月と8月に行われ、家族構成に順じ一定の控除が控除限度額に達するまで繰り返される。ま、所得の低いサラリーマンはそもそも毎月の給与控除の所得税が少なく、2月減税を使いきらない内に8月の減税が始まる始末。
 北海道の給与水準では夫婦子供3人ではほとんど所得税が発生しない。こんな減税、誰にも実感が無い。一部の独身者には実感があるかもしれないが、彼らの時間外手当と比べたら実高はとても及ばない。
 いったい、何処の馬鹿がこんな方法を考えたかと言うと、給与からの所得控除が手間がかからないからと考えた官僚で、ここに経済再建の視点は欠落している。そもそも、算数の上で成り立てばそれで良いと考えているのが「平成10年所得減税」の方式である。あたら徴収できる税金を徴収せず。それで、まったく経済効果が無い、そんな愚考をよくもまぁ誰のチェックも無く行ったものである。
 何のために税はあるのかを考えると、反面教師として何故減税を行うかも見えてくるはずなのだが。

公明党懐柔の「地方商品券」
 ま、何時の世でも官に依存する火事場泥棒は存在する訳で。まったく意味不明の低能公明党と「国民商品券構想」に自民党が賛意を著してる。民主党の脅威を打破するために自民党が公明党を抱きかかえる政治的愚行に国民の税金を使おうとしているのが「国民商品券構想」。
 誰が自ら納めた税金で発行された商品券を有り難がるだろうか。この商品券で購入すれば、やがて支払もそう遠くない先に自らに巡ってくる。そうなら、先の返済を考えたら金券ショップで現金にかえて貯金しておいたほうがよい。
 そもそも、自民党が公明党を懐柔するための政策であり、国民の税金を利用した政治の茶番劇が「地方商品券」案である。あまりにも国民を愚弄している。

政治の無策の根元
 これは、政治家に独創性が無いからと言い切っておこう。政策立案もすべて御輿に乗って担がれた政治家の自己保身に起因している。先日小渕総理に備前焼の茶碗をミス備前焼が届けた時に、かの総理大臣は「箱をもらうだけで無く、開けて見たいよなぁ」と回りに賛同を求めていた。ま、なにおかいわんやの小渕である。総理大臣なのだから、回りに賛同を求める以前に「俺はこうしたい」との意思表示が必要だる。なにも備前焼に限ったことでは無い、一時が万事回りに賛同を求める総理大臣を出した自民党の責任は20世紀にしっかりと刻まれなくてはいけない。税金を私利私欲のために食い物にするハゲタカが自民党である。
 世代交代に失敗した故に後継人事支障をきたす今の事態はハゲタカ政策しか無かった結果である。現に、自民党国会議員の若手はもはや政党を離れたロビー活動をしてる。彼らにとって選挙は自民党で、政策は世代共闘でと筋書きが出来ている。

今の税金は年貢と同じ
 結局、納税者に納めた税金の使われ方の監視機能が無ければ、税金はそれを食い物にする者にとって濡れ手に粟のオイシイ現金でしか無い。それを許し、北海道の市町村はほとんどが公共事業受注を核にした「土建の町」になってしまった。 小学校4年生の社会の副読本に「わがまちの歴史」がある。市町村教育委員会が編纂するわが町である。ここにはたいそう立派な歴史が書かれている。そして、現状も発展を続けるわが町である。
 現実を見てみると良い。公共事業に依存した産業関連図しか描けない「わが町」が北海道には多い現状を。ビジョン無き政治家によって、国民から集められた税金が私利私欲のために使われている。和歌山の砒素関連を「保険金ビジネス」と呼ぶならば、この構造は「税金ビジネス」である。
 「民が預託した」って観点はまったく欠落している。
それは、おかみが年貢を徴収した江戸時代となんら変わりは無い。せいぜい徳川家康が小渕って名前が変わっただけの(徳川家康と小渕を比べるのは家康に失礼だが)

Back
1998.10.12 Mint