結局東京都知事は石原さん

予想は外れましたが
 選挙は競馬の予想とは違う。実力と運は誰にも計れない。それにしても予想した桝添さんの票が思ったほど伸びなかった。結局自民党の栗本問題を引きずってしまったのか。これは森現幹事長の煮えきらない態度に「取り合った」桝添さんに失点がある。自民党を批判するあまり自民党を意識し過ぎたのだろう。顔が都民を向いていなければならないのである。
しかも、日本一の都市東京では国政と地方自治体の境があやふやなので、しっかり自治体の問題と国政の問題を分けて考えるべきなのだが、自らの政策は地方自治、関係者とイザコザは国政レベルでは焦点が定まらない感じを有権者に与えてしまい、票を得られなかった面がある。
評論家の中には今回の結果を「政党の政治に国民がNOと言っている。少なくとも政党の支配する選挙は成り立たなくなっている」なんて人が居るけどそれは浮動票が多い東京での事。地方では政党と言えば良いのか、民俗のしがらみと言うのか、このあたりがまだまだ生きている。
日本ではアメリカで起こっていることは数年を経て日本で起こるとの考え方が支配的で、これを東京で起きることを日本一般に普遍化する風潮がある。しかし、前者はいざしらず、後者はまったく間違いである。今回の東京都知選挙は自民党の自滅の繰り返しの上に成り立っている結果であって、特に既存の政党に対し「No」と読めるフシは無い。
 石原氏が「後出しジャンケン」したのも自民党の不統一による乱戦を予想してのこと。3月中旬時点で誰にせよ自民党が統一候補を絞り込んでいれば、結果として柿澤票+明石票+石原票(の一部)が統一候補に流れ、なおかつ公明党の票もこの統一候補に流れたであろう。
結局、石原氏の「一人勝ち」ではなくて、自民党の「一人負け」なのである。
そして、石原氏を決断させた自民党の不手際が結局、桝添都知事の成立を阻んだことになる(とまぁ、ヒョーロンと言うのは我田引水なものであるが(笑い))

国政と地方自治体の政治制度のの違い
 あえて述べるまでも無いが、国政は議員内閣制で議員が選んだ代表が総理大臣になる。ところが、自治体は議員と組長は別々に選ばれる。国政では内閣総理大臣が衆議院の解散権を持ち、地方自治体でも組長が議会の解散権を持つが、その成立の経緯は国政と地方自治ではかなり違う。
 地方自治の方が住民の直接選挙により選ばれた組長と同じく住民の直接選挙により選ばれた議員の2重構造が明確に出る。国政の場合、住民(国民)に選ばれた議員が、国民から見たら、間接的に選んだ内閣総理大臣によって運営されている「直接民主主義」的では無い制度によって運営されている。
 さて、考えて欲しい。民主主義の基本は何かと言うこと。
 実は僕は小学校の頃は民主主義とは「多数決による直接投票」と教えられたと自らをかえりみてる。それが形骸化した「学級委員制度」とかに表れていたのは時の教職員は気が付いていなかったようだ。僕が「学校で教える民主主義」に疑問を持ったのは、恥ずかしい話であるが、受験戦争から落ちこぼれ予備校に通っていた、あるいみで無所属(笑い)の時代である。大学を出て社会人になってからもモヤモヤしていた。で、30歳にして解ったことは「情報は民主主義の糧である」とジェファーソンが言った意味。結局、一部の選ばれた議員の中の「暗黙の合意」の中からは情報は外部に出ないということ。
一部週刊誌が扱う情報で進退が左右される検察庁職員も情けないが、基本的に情報公開(開示)していないがためにマスコミが飯のタネししている現状を考えると、日本は3流ジャーナリストにも政治のゴシップが書ける余地がある脇の甘い政治風土の社会だと言える。申し訳無いが、週刊ポストに政治ゴシップ欄があるのは日本人の民度を表している。ごった煮状態の一部として政治が扱われている(ヘアーヌードと共に)のはいかがな物か。政治家の自戒を求めたい)
 さて、情報が沢山流れるためには、政治が仲間内で運営されている状況を打破して互いの監視構造を作くり、その中で相互に情報を要求し合う仕組みが必要である。そのためには現在の地方自治体の議員vs組長の2重構造は進歩的である。国政の仲間内の仕組みでは相互に飛び交う情報は格段に少なく、国民が情報に触れる機会もこれまた少なくなる。

結局、地方自治は大統領制
 最近の金融機関の経営行き詰まりに端を発した長期経済低迷を見ていると感じることなのだが、企業の社会的責任、使命を果たす責任を経営層が認識していない時代に日本の株式会社制度が陥っていることである。北海道拓殖銀行の経営陣は北海道拓殖銀行が果たすべき役割を逸脱し、あろうことか金儲け至上主義に走り、結局会社が社会的使命を果たす以前にその存在を抹消してしまった。
この構造は代表取締役が取締役の互選で決まる現在の株式会社制度の内包する問題点として考えるべきであろう。
最近は株主代表訴訟なんかがこれに対抗する手法として脚光を浴びているが、基本的に制度を換えずに小手先の手法で問題点に当たっていても根本的解決は見ない。
とまぁ、ここまで熱心に読んで戴いた方ならお分かりと思うが、民主主義を、個人の利益を特定の集団に託す時には、複数の監視機能を直接選べる制度が必要になると言うこと。つまり、地方自治で言えば「議員選挙と組長選挙」のリンケージによる立法府の相互監視の預託が住民が出来るが、国政では「参議院と衆議院」(これって、相互監視機能には程遠く、無駄の二重構造でしか無い)なんて辞めて、国会議員(衆議院を残し参議員は廃止、そして大統領制の導入)、と大統領の二つの選挙権の国民の獲得。
ついでに言えば株式会社においては取締役、監査役(多くの場合、取締役会から推薦される仲間内)に加えて、株主役員(株主総会で単独に投票され選ばれる。もちろん、専任)みたいな仕組みを構築する必要性を感じる。
つまり、国民はそれぞれの場面で「無条件に」他人に何かを託す訳ではなく、選択を常に懐刀として持てる制度を考えるべきである。
これからの4年間、石原氏は何故東京都知事に立候補したのか、そして都知事として何をリーダーシップ発揮したいのか、これは、見せていただくしかない。
ただ、一言申し添えたい。桝添氏を選ばなかったつけは4年間東京都民が背負わなければならないって事実を。
結局、一番ミーハーな東京都民が選んだ石原氏に責任を持たなければならないのは東京都民自らなのだから、その責任を自らの問題と思って覚悟してもらいたい。「支那」発言で国政問題になっても、それは選んだ東京都民の自己責任である。そこに責任は無いと言える無責任さはさすが、言いませんよね。
ある意味で、石原氏の言動の責任は、司法の場では石原氏に投票した人にまで及ぶ(現行の選挙制度ではそれは無いが)と思って選挙は行われないと、これは「民主的」では無い。ま、4年楽しませてもらいます>東京住民

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1999.04.17 Mint