国旗、国歌、訳のわからない法制化

訳のわからない法制化
 繰り返しになるけど、日の丸は国旗、君が代はナツメロ。これが僕の基本方針。ところが日の丸の国旗に加え「君が代」を法律で国歌に制定する法案が国会を通ったらしい。ま、ナツメロフアンが勝手にしてよって老害のたまものとしか思えない。
マスコミの本質を捕らえない「君が代の国歌制定を憂う」なんて記事を見ると、馬鹿馬鹿もう死ね! と叫びたくなる。なんで、マスコミは体系だって論点を整理して掲載することが出来ないのだろうか。皮相的な事柄の伝達だけなら、プロは不用だっちゅうーの。
 日の丸を国旗として法律で制定することには何も異論は無い。この点は今回の論旨では無い。しかるに、この延長線で学校行事での国旗掲揚、君が代斉唱に結びつく論旨の展開がまったく不明である。法制化されれば文部省の卒業式や入学式での掲揚、斉唱は制限を受けるって発想が無いのか日教組の馬鹿ども。
 日の丸が何の象徴かは個別に解釈のある所だろうが、僕は現在サッカーのワールドカップなんかで振られている日の丸を見ると、基本的に「日本を代表する象徴」であると思う。その象徴で日の丸が使われている現実を直視すべきであろう。つまり、各自の意識の中で日の丸が妥当を思う自己主張(つまり自己責任)のなかで日の丸が使われるべきと思う。今後「日の丸弁当」は不適切な表現となるだろう。たかだか弁当に「国旗」を称する資格は無い。つまり、国旗、国歌が日本の民主主義の制度の延長線上に位置づけられたってこと。祝祭日に個々の家庭で掲揚する日の丸には自己責任としての掲載に対するポリシーが必要になる訳で、闇雲に「決まりだからぁ」なんてのは、民主主義の世界では許されない。それが、法制化ってことの意味。そして使用の自己責任ってこと。

学校では個々人の胸に日の丸ワッペンを
 そもそも、日本の民主主義制度下で法制化されるのだから、「式典を天皇に報告する」なんて古来の用法はそのまま適用できない。「国が定めたから」なんて校長、教頭の発言は何も意味を持たないし、そもそも学校行事で日の丸・君が代を使用せねばならない法律的裏付けも無い。そんな発言をする校長、教頭は「馬鹿、馬鹿死ね!」である。民主主義であるのなら、その制度で法制化されたのなら、おのずと学校の公式行事での日の丸、君が代の扱いも、今までとは違う。
 民主主義の現在を教える教育の場で、国家に報告する式典なんか存在しない。そのために、これからの卒業式、入学式では対象となる生徒、学生そのものが「主役」でなければならない。その「主役」は当年大学を卒業する日本の代表であり、当年大学に入学する「日本の代表」である証である日の丸を胸に式典にいどんでもらいたい。少なくとも「国に捧げる式典報告」なんか、法制化されたら、無い。日本は「民」が「主」なのだから。

個々人が国家を代表する象徴としての国旗
 僕は「日本代表」だけに許されたものが、個々の服装への国旗ワッペンの添付だと思う。つまり、古い表現では「全日本」と選ばれた人間が選ばれた誇りを表すのが日の丸ワッペンだと思う。そのため、西武の松坂が日の丸のワッペンがあるユニフォームでオリンピックに出場するのは楽しみである。松坂にはその資格がある。
 同じように、入学、卒業の式典に参加する個々の生徒・学生は式典の主役である。その主役が日本を代表する印として胸に日の丸のワッペンを掲示する(もちろん、思想信条で拒否するのはOK)のが今回法制化された日の丸=国旗の正しい姿ではないだろうか。
基本として「国に捧げる式典」としての日の丸掲揚は「馬鹿、馬鹿、死ね!」の世界である。今回の「国旗、日の丸、制定」は、民主主義の原理から考えると、主役である卒業生、新入学生が胸にワッペンを張れと解釈するになんら違和感は無い。狂乱の教育の現場で、そのことを正しく理解できる管理者を望みたい。日教組の馬鹿は、イデオロギーから法制化を民主主義とリンケージできないのである。

国旗掲揚、国歌斉唱のアカウンタビリティ
 これまでの、慣習として国旗(のようなもの)掲揚、国歌(のようなもの)斉唱から、日本の国旗、国歌が入学式、卒業式で掲揚、斉唱されなければならない訳を明確に説明する必要が主催者側に発生した。理由はともかく従えとはならない。理由を明示する責任が文部省に発生する。民主的手法で国旗、国歌と制定されたのだから、次は、この国旗、国歌を使う理由を参加者に説明しなければならない。はたして、合理的で民主的な説明根拠はあるのだろうか。逆に法制化された国旗、国歌であるから、たかだか学校の式典ごときで使うのはまかりならない。大相撲なんて「興行」で使うのも国歌の尊厳を失う。同じく興行であるボクシングでも使用禁止。なんて、論議が出て来る余地が生まれたってこと。
 本当に、入学式・卒業式で制定された国旗、国歌を用いる理由を誰か説明して欲しい。誰も説明できないのではないだろうか。だとしたら、今まで教育の現場を混乱させていたのは、文部省のマッチポンプだったことになる。日教組も何でも反対サヨクから、もっと確かな理論を持て。
 鳩山由紀夫氏の「賛成から始まる議論」は、まことに知的で的を射たものである。「おらぁ納得できねぇ」と攻めるポイントが相手の脇の甘さから出てきたってことなのだから。

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1999.07.22 Mint