民主党のあるべき論

党首選挙が終わったので
 党首選挙があったので書きためてました。万が一鳩山さんが党首にならない民主党の可能性があったので、その場合は見限る予定だったので書かなかったのです。
 決戦投票にもつれこんだとは言え、新しい民主党はリベラルな鳩山氏の考え方を中心に動くことになると思われます。リベラルとの用語を何と説明して良いのか解らないのだけれど、僕は「進歩的懐疑主義」と理解したい。つまり、解らないことを勉強して議論に加わる基礎的知識を収集する志向、姿勢を「リベラル」と著したい。
昔の手法で「勉強会」てのが有った。実はオルグの場で情報を共有して皆で考えようとの場ではなかった。ここに旧社会党の問題がある。現在、連携政権を目指す自民党が忘れているのが自民党外の存在だ。忘れても良いと言われるくらい自民党外は弱いのだろうか。実は自民党の土台にしか乗っていない現状は脆弱だと当の首相が気がついていないのが問題の根本にある。原始動物が成長をするときに細胞が分裂して分かれて行くように、昨今の保守分裂&提携は古い皮を脱皮する変態にも似ている。その残された皮の側が自民党で、殻を脱ぎ捨てたのが自由等であり、さきがけであった。で、生まれたばかりの殻を脱ぎ捨てたサナギはやはり脆弱である面は否定できない。
 自由党が公明党と仲良く連携できるかどうかは別にして、両党が持つ基本的ポリシーの不一致が個々の場面場面で致命傷になる。自由党は過去の保守から脱皮しようとする集団であり、公明党は過去の保守の道をひたすら追い続けてきた集団と両者の違いは明かである。保守の系図から言うと最後尾に保守亜流の公明党が居て、真ん中に自民党、先頭は自由党の並びになるだろう。その両者の利害が一致する問題は歩み寄るとして、利害が対立する場面であよみより妥協できるとは思えない。常に、必要以上の緊張感で付き合って行かなければならない関係は、やがて、決定的別れを生む。
 連立で閣内協力の実績を作ったって、来年の秋には衆議院の総選挙で選挙後の内閣改造までのチョイ役がせいぜいである。それでも内閣の一員に成りたいのであれば、それは単に選挙対策でしか無い。政治家が政治家として志を遂げる場では無い。名誉職の閑職でしか無いのは閣僚議席を譲る自民党にもお見通しだろう。
 所詮、旧体質を引きずる新体制。しかも、旧体制は国民から見たら脱ぎ捨てられた殻でしかないのに組織内部の構成員が解っていない。気が付いていない。

民主党はどのように戦うか
 実は「闘争」なんて言葉は好きでは無い。ヒトラーの「我が闘争」ではないが、政治が権力闘争であると思っているのは政治家だけで、民衆は「権力闘争」と揶揄しているのである。同様に陣笠議員は論外として、政治家になって権力を握って、日本を自由に動かしてみたいって「志」が政治家にあるとしたら、それは民主主義の選挙制度の仕組みをねじ曲げて政治家に成った者である。政治家は民衆に選ばれたエリートでは無い。組織に選ばれた官僚に対抗する国民の代表なのだから。この両輪が国を動かして行く構造が近代民主主義制度の1形態として導入された選挙制度から得られたことではないだろうか。
 菅代表の問題点は市民主義を唱え、市民との論議を中心に政治を考えている点にある。市民の代表たる政治家では無く、市民の声を捕らえ、対官僚と議論する立場に自身が居なければならないことを忘れている。つまり、つまり、組合の委員長でしか無い。ま、それが気に入って旧社会党系がすりよって来たのだろうけど。
民主党の「菅人気」とは何だったのか考えると、薬害エイズ問題で菅さんが厚生省官僚を叩き、真実を(ここは、事実とはあえて言わない)天下に引き出したことなのだ。だから、官僚と対決する我らがヒーロとなったのだが、頭悪いのか、「組合の委員長」は訳も解らず舞い上がってしまった。そして、顔が国民では無く組合のほうに向いてしまった。
 さて、民主党の存在理由(レーゾンデートル)を考えてみると、対自民党戦略も、金権腐敗自民党なんて言っているよりも「官僚主導の日本国経営、政治家はその利権に群がる構造」の自民党って視点で捕らえなくてはならない。
2大政党が何故進歩的なのかと言えば、官僚の行動のチェック機構が表裏有る緊張感にある。本来国民から選ばれた政治家は選ばれた瞬間に自分のブレインで行政の中核を総入れ替えすべきである。現に、アメリカなどの地方自治体では選挙の結果によっては役所の構造は再構築される。札幌の姉妹都市であるアメリカのポートランドでは市長が変わった瞬間に時の札幌市の市長である板垣さんが作った人脈は崩壊してしまった。それを知らずに姉妹都市交流で乗り込んだメンバーはそうとうひやめしを味わったらしい。

つまり、官僚の統制が政治家の仕事
 かつて、北海道知事の職にあった今回の立候補者の横路孝弘氏は初当選の場で「静かなる改革」を宣言した。それは、当時の泊原発等の問題には時間をかけてゆっくり取り組むとも意味だったのだが、北海道庁の職員には誰が知事に成ろうと我々は安泰と意識を植え付けただろう。もちろん、道庁の組合の支持を得た知事としては行政機構との対決は出来ないのだろう。ここに横路の限界がある。組織の力で当選した政治家は霞ケ関での序列も事前に決まり、結局陣笠議員しか出来ない。にもかかわらず、自らを捨てて、組織の支持を求める姿勢が横路の親父とは違う限界である。
 最近、道庁職員であった堀知事が叫ぶ道庁改革と比べてみたら、横路の言う道庁改革ってのは行政と仲良く成る政治であって、次の選挙への基盤整備でしかない。結局、食の祭典で94億もの赤字とそれに至った道庁職員の暴走を横路は容認してしまった。(もっとも、昨今のバブルの清算から見たら94億円は小さく見えてしまうが)
このような地方政治がまかり通っている日本の現状を打破しなければ政治家の存在理由は無い。知事になった瞬間に道庁職員の芸者と化す政治家は我々いらない。(あ、横路のことね)
政治家の仕事は市民から依託された広範囲な権利を市民のために生かすことである。ならば、官僚を議論し、市民感覚との違いを市民と議論すれば良い。

選挙と政治
 選挙は「闘争」かもしれない。だけど、選挙で選ばれた政治家は自らを支持する者のために政治をねじ曲げてはいけない。国民が公明党が持つ嫌悪感は、公明党が創価学会のためにしか政治を動かさないのではとの懸念から派生する。自民党党首選挙で小渕首相は「幹事長が駄目で選挙で過半数を取れず、連立を組まなければならなかった。その時の幹事長が何を言うか」と加藤氏を攻めたが、ま、一国の首相たる者の発想の中に「国民不在」なのにはあきれてしまう。
 無党派を支持母体にする政党の政治家にだけ出来ることがある。それは、誰の指示も受けずに個々の信ずる所に従って行動できること。極端な事を言えば、現在の支持者に縛られる事なく「未来の支持者」の為に働く姿勢が期待できること。
先の公明党や企業献金に頼っている自民党では政治家は支持母体と思っているかもしれないが、実は「指示母体」になっていることを認めるべきである。五味川順平が「戦争と人間」で描いた「経済が政治を動かした時代」が世界に富の掠奪の時代(植民地主義等)を形成した(その最後の舞台を日本は演じたのだが)。この歴史観を持つならば政治家が担う職務はおのずと見えて来る。それが民主党が目指すものだろう。
 繰り返しになるが、3権分立を守っていて、司法・立法・行政の不可侵条約なんかを行って50ゆうよ年。結局、行政が日本の舵取りをして国民不在の自らの保身に邁進する税金利用の構造を作ってしまった。その現実に着目するならば、菅氏の厚生省隠し資料の掲示が何だったのか考え、例えば変人の小泉氏の郵政民営化論が何をもたらすか考え、その中に隠れる国民の意向を読み取り行政と調整する機能が無党派党の民主党に必要なものと気が付くだろう。
 最近「3権分離」を疑っている。これは行政を担う官僚が「政治家は法律作るだけね」と自分達主導で制度を作った結果ではないだろうか。そして、社会システムとしては大化の改新並に戻している。国民不在で国民から徴収した税金を行政の意図のままに使っている。これが50数年続いて、今、日本はどうなっているか。つまり、国民不在の日本を作ったのは自己の「指示母体」ばかり見ている甘い政治家であり、選挙上手しか残らない現在の選挙制度の淘汰の結果で、導かれた「政治不信」と解った政治家だけが21世紀の政治家として生き残る。

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1999.10.02 Mint