理念無き介護保険制度

政治の道具と化した介護保険制度
 ドタキャンってのがあるけど、まさかそれは無いと思うが、介護保険制度は来年2000年の4月から実施される。既に実施に向けて10月からは要介護認定の審査会が始まっている。自自公連立の時代に介護保険がどのように運営されるかは大変重要な「政策」であると言える。また介護保険制度の成立の過程を見ると、今の民主党の菅さんが厚生大臣の時に始まり、「変人」小泉厚生大臣の時に法制化され、自自公連立の現在実施に向けて準備を進めている。
 基本的に介護を必要とする高齢者の介護費用を社会的「相互扶助」の精神の元で賄おうと策定されたのが介護保険制度と言える。しかし、昭和30年代に行われた医療制度である「国民皆保険」制度程煮詰まっていたのか疑問である。
 政治家の、立法府としての「実績」にこだわって策定されたのが介護保険制度ではないかと僕は思う。なぜなら、時代の推移を感じるならば、少死高齢化と対をなすのが情報化社会の到来である。しかし、こちらは難しいのか確実にヒットを飛ばす自信が無いのか触れられていない。税金で金を集めて、それを使う制度ばかり立法していても政治とは言えない。

制度の「矛盾」以前の問題
 高齢者の介護を受益者負担で行う制度の欠陥から指摘しようと思う。現在の介護保険の経費の負担者としては、40歳以上の国民(2号被保険者)と65歳以上の高齢者(1号被保険者)となっている。これらの人は直接(1号被保険者)、間接(2号被保険者)を問わず各自の所得から、いわゆる「保険料」を負担する。理由は、制度で保険甘受者に成れるから。
 高齢者介護は「受益者負担」に該当するものなのだろうか。もっと、社会的な制度でなくてはならないと思う。そもそも、40歳以上の国民に保険料を負担させる線引きの合理的な説明は無い。相互扶助であれば、2号被保険者の存在は財源的「おしつけ」でしか無い。40歳台で「高齢化による傷害」が無いとは言わないが、その確率は低い。つまり、40歳から65歳までの2号被保険者は実質的に65歳以上の高齢者の介護の費用を負担する「財源」でしか無く、受益者では無いことになる。
そんな不公平が有って良いのだろうか。まして、人口傾斜を見ると、この40歳あたりの人口は第二次ベビーブームの直前で大して高齢者介護を支える数に加算できない。要は、つじつまあわせの二号被保険者なのだ。

国が産業を育成する時代は過ぎた
 規制緩和が何故必要かと言うと、いままでは戦争が終わってとにかく日本の国民を養い、日本を豊にするために国の舵取りが重要だった。あめりかにMITIに該当する通商産業省が無いのに、日本は官民こぞってアメリカ経済を攻めていると揶揄された時代があった(今でも、一部言われているのかもしれない)。
 官僚は経済を統制し、それが良い方向に進んだのが昭和30年代からの日本繁栄の基礎作りの時代だった。企業は物作りによって生きて行くのに精一杯で、海外に販売路を広げるには官僚の持つ情報を必要としたし、その情報量は豊だった(何故なら、一般国民の海外渡航は規制されていたのだから)。
 池田総理大臣がアメリカで「トランジスターのセールスマンが来た」と言われた誇りが官僚の自負となって海外販路拡大は通産省のシナリオに添って行われた。いや、海外からの侵入を防ぐのも通産省のシナリオで行われた。唯一、通産省主導の産業構造編成に逆らったのは本田宗一郎だけだったかもしれない。
 つまり、国の機能の中に産業を担っていたいた時代が過去にあった。そして、その惰性が驚くことに昭和40年、50年、60年と30年間も続いた。その間、池田総理の真似推して「資産倍増計画」なんか言っていた政治家も居たが、アドバルンでしか無かった。この事実を見ても解るように、もはや国の使命は産業へは無力である。
 だから、原点に戻り、民間のやれないことをやるのか官の使命と再認識してもらいたい。忘れてしまった人が多いとおもうが、厚生省のシルバープランを利用して自己資金ゼロで老健施設を作り、役人と懇意に(金銭等いろいろな意味で)なる構造しか作れないのなら、原点に戻るべきだ。
 つまり、高齢者介護は国の責任で賄わなくてはいけない。
産業に口出す部門や外郭団体を整理し廃止し、ここで浮いた経費を高齢者介護に回す。その意識が無く「民間に新しい介護ビジネスが生まれますよ」ってのは、臍が茶を沸かす。ふざけている。経済の流れを牛耳っていると思う江戸時代の悪徳商人そのものじゃないか。

経営が破綻してるのは「国」だぜ
 金融再編成だとか、馬鹿な経営者の合併トレンドだとか、ま、この日本には笑える「流行」が多い。しかも、この流行に乗り遅れてはいけないそうだ。いわゆる「バスに乗り遅れるな」。右も左もやっていれば俺もやるって精神。ま、これが、戦前の天皇崇拝(明仁天皇は迷惑だったのかもしれない)を基盤に「右にならえ」の精神と同じなのだが。
 金融監督庁だか知らないが、何にも比して、監督官庁の元締めである官庁そのものが返すあての無い借金を土俵際で踏みとどまっているのが解らないのか。
 戦争が終わって半世紀が過ぎるのに中国への訳の解らない円借款を出してる場合か!
馬鹿役員が不正融資するのを止められない拓銀と同じ構造を大蔵省は秘めている。一般の税理士から見たら大蔵省は「自己破産宣告したらどうですか」って状況だろ、。

行革と高齢者介護保険はリンケージ
 橋本龍太郎は時の科学技術庁長官の山東あきこが委員会をほっぽらかしてゴルフしていたのに付き合った無神経さで戦後有数の駄目な総理だと思うが、一つだけ信念を持っていたと思う。それは、国の財政の再建だ。ばらまき、利権、甘い汁の自民党にあって、途中経過は別にして(笑い)、首相になってから、たぶん、周囲も驚くほど「日本再生」に努力したのだろう。
「日本発の経済恐慌は起こさない」と言わせた誰かが何処かに居るのだろうけど、それを憶測はしない。つまり、橋本龍太郎はトップになった時から豹変した。
がしかし、度量の無さと言うか、おらが天下と言うか、配慮が無いための失点が多い。しかし、一時の繁栄を築いた人々が高齢になって、介護を必要とした時、遡って、自民党の総裁であり、時の内閣総理大臣であった池田はやとの「所得倍増計画」の中核であった人々に自民党として何もできないのでは情けないさろう。
律伶制度は、今でも議論がある。それは「税」とは何かってことに戻ると思う。がしかし、目指すものを考えると、時の政権を支持するかどうかは、個々人が律伶制度のなかで負担する「税」が宿命なのか参政への権利なのかの判断による。
 僕は介護保険に必要な経費は、国自らが工夫して捻出可能と考えている。

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1999.10.28 Mint