所さんの目がテン!に石原知事
所さんの目がテン!
日本テレビ系列の北海道のSTVでは上記の番組の放送時間は土曜日の午前10時から。他の地方や外国では放送時間が違うらしい。
理科系離れが叫ばれて久しいが、この番組はスタッフの悪のりであれ、実験を通して物事を知ろうとする数少ない、と言うか、今ではほとんど見られない科学誘引番組と言える。あの楠田絵里子はXファイルあたりでつまずいて、日本に本当の科学番組と言える番組は教育テレビにしか無くなってしまった。NHK特集では時々見るものがあるが、民放では答のみに着目したプロセス無視のクイズくらいしか無い。
答を知っていることを競う「クイズ番組」は、プロセスを重視する科学、特に物理学のようなものに向かない。「たけしの万物創造」も、いかにも文系が作った科学番組と思われるのは、知識詰め込み型で、自らの疑問を検証する番組構成になっていない。あれでは、百科辞典を番組にしただけだ。
「目がテン」の奇抜さは、先週の放送にあったように、ほうれん草が鉄分に富んでいるなら鉄を取りだそうといった理論では解っているが実体験で経験できない事を目に見える形にする馬鹿さ加減である。
魚住アナが僕の好みのタイプであることを差し引いても(オイオイ!)アメリカで放映されている理由が解る番組である。
で、今回の「お題」はアロエ。
アロエ研究家であった時期がありまして
昔、胃腸が弱くて数日間の便秘は当たり前。大事な時に急に腹痛(便秘起因ではなくて)が始まり、脂汗を流しながら発表なんて場面も沢山経験した。結局神経性の胃腸炎と前日の食生活の後遺症なんてのが経験的に解ったのだがその解決方法は解らない。
週刊誌なんかでは、その場合い「ブルーワーカー」なんて器具で身体を鍛えたら良いらしい(笑い)のだが、大学時代寮で同室の先輩が持っていたが、彼は身長170cm、体重55Kgから全然変わらなかった。
結婚してからだろうか、食生活の不規則さが無くなったのも原因と思うが、妻の実家で腹痛を起こした時にもらったアロエ焼酎が体質改善に効果があったと思う。別に、それから信仰して飲み続けている訳では無い。その時の1発で身体のリズムが変わったのだった。
以後、一般の「木立ちアロエ」ではもの足りず「アロエベラ」まで栽培してアロエの効能を実体験している。経験的にはアロエはある種の抗原を体内に作るみたいで、風邪とか病気によるストレスによって失われ、再度飲用すると形成される。そんな効果があるのではないかと思う。もちろん、体質にもよるし、特にカルト文化に加担したいとは思っていないので、あくまで私見であるが。
何故、東京都知事、石原慎太郎なのか
番組でのアロエの取扱いは、「不思議な植物」程度であった。紅茶キノコなんて訳の解らないものが流行した時代もあったのだから、あまりアロエ伝説みたい番組作りはしないほうが良いだろう。
どうもニュース画像の中に石原知事が毎日朝食時に自家製のアロエジュースを飲んでいる場面があり、番組スタッフは交渉したらしい。テーマは「日中採取のアロエの苦さと夜間採取のアロエの苦さの違い」である。
アロエの苦さは光合成により形成された物質に起因しているから、当然夜間採取のアロエは苦みが薄い。同じ観点から乾燥時期のアロエと湿潤状態のアロエも違うのだが、これは番組では取り上げられなかった。自家栽培のアロエを何かの薬効を求めて利用するのならば、何をおいても「切ってすぐ利用する」である。夜だからとか昼だからとかは関係ない。また、先に書いたように、アロエは常食するものでは無い。非常時用に栽培しておくのが一番賢い利用方法だとあえてコメントを挟んでおこう。
この昼と夜の味の違いを体験する対象として石原知事が登場する。
飲んでみて、やはり夜に採取のアロエの苦さが少ないことを述べた。
出演交渉の舞台裏(邪推)
アロエジュースを毎日朝食で飲んでいる。それに気付いたスタッフが交渉をはじめたのだろう。ま、作家石原慎太郎、国会議員石原慎太郎、東京都知事石原慎太郎と肩書きを見比べると、東京都知事石原慎太郎はノーギャラで出演依頼できるだろう。そのノーギャラには唯一「もっともらしい東京都に寄与する理由付け」があれば良い。
実は、アロエ商品の日本の原産地、アロエが栽培されているのは八丈島である。ここは東京都である。これは十分ノーギャラに説得力を持つ。たぶん、東京の地域振興(実は、東京都にだって過疎地はあるのだ)の一環として出演したのだろう。そのストーリーは「アロエは八丈島原産=東京都の農産品=石原慎太郎」ということになる。
したたかなテレビスタッフの策略に苦笑しながらも出演したってのが実態ではないのだろうか。
石原慎太郎氏のテレビ好き
ジョン・F・ケネディがテレビを巧く使ったと良く言われる。ケネディかぶれの細川元総理大臣はテレビの前でケネディのものまねを演じてくれた(情けない茶番劇、どこのアングラ劇団も手本に出来ないくらい低俗だった。現にギャクとして真似たお笑いコンビは無い)。
佐藤栄作が退陣の時に、テレビだけを記者会見の場に残し、新聞は「出ていってくれ」と言った(実は僕はそれをリアルタイムで見ていた世代なのだが)。まさか、あの佐藤栄作がケネディに目覚めた訳でもないだろう。結局政治家にとって、選挙で票を集めることが当選(自己の地位保全)の必須条件だとしたら、そのために使える道具は一生懸命使いたい。それが本音だろう。
もっとも佐藤栄作は「新聞は真意を伝えない」と言い、当時の記者クラブが「取り消していただきた」と声を震わせながら(笑い)申し入れたら「取り消さない」。「じゃぁ、我々は報道に責任を持てませんよ」とまぁ、また震える声で(笑い)言ったら、「結構、私はテレビとやる。出て行けば良い」てなゴタゴタがあって、降り上げた拳固を降ろせずに記者クラブ退席ってのがあの状況だった。テレビはニヤニヤしながら完全中継していたのだ。記者クラブなるものがなれ合いの力量不足の御用報道組織だったのを露呈した事件だった。佐藤栄作の凄さは、その記者達が退席したテレビ陣しか居ない空席の多い状態で自分の退陣を表明したことだろう。ま、情報の伝達の世界では今と比べてもはや石器時代の出来事ではあったが。
考えてみると、変な話だ。選挙の公職選挙法での立候補者の政権演説はテレビを通じて流されることが明記され(なんか、NHKは「おちんちん」発言で悩んだようだが)それが選挙の投票につながる。ところが、いざ当選してしまった議員の行動は全然報道されない。そもそも、報道の対象外なのかもしれない。しかし、議員になるのが目的の立候補者はやまほどいる。議員になって何をするかは立候補時に公約として叫んでいる。がしかし、議員になった瞬間に全ての情報を隠し、およそ国民の代表として日本の舵取りを求められるが無視する陣笠議員が多い。議員定数削減するなら、この陣笠議員を切れば、国会議員は半分になると思う(一部に1/3説すらあるのだが)定数削減なんて甘いことを言っていないで、「現議員から100人解雇」そんな発想が馬鹿な国会議員の論理「民間はリストラで苦しんでいるのだから、国会も(公明党の発言だが)」を実現する方策だろう。議員定数削減なんて、モラトリアウに次回の選挙に下駄を預けた「自分が可愛い」的な傲慢な発想であることに気がつかない傲慢さが鼻持ちならないのだよ>議員さん。
民間と同じくしたければ、無能が議員の首100個切って並べてみろってんだ!
とまぁ、話は逸れた(笑い)。
石原慎太郎の革新的な事は(多分、本人は確信犯的なのだろうが)、判断は世論に委ねる。そのために、世論に情報開示する機会は利用させていただく、との姿勢だろう。つまりは、隠す事なんか無いと公明盛大に言えることをアピールする。
金融監督庁の越智氏が辞任させられて(この、「辞任させられた」ってのは日本語として大変矛盾を含んでいるのだが)石原慎太郎知事のコメントは2つ。
「なんか、問題起こすとは思ってましたけどね」(これって、外形標準課税での越智氏のコメントのリベンジ)
「これって、東京都への神風だよ」(どうでも良いことだけどと不敵に笑いながら)
実はこの前に、「一切の相談も無く」と言った越智金融監督庁長官に「あの人、役人でしょ」と強烈なジャブがあったりしたのだ。
石原流のテレビ出演が象徴するものは、テレビを自己の利益に利用したろう、みたいなスケベ根性ではなく、まさに、「太陽の季節」、湘南高校に代表される、「楽しいから、つきあう」の精神だろう。これには誰も勝てない。
石原慎太郎知事の発想の原点は「太陽の季節」を読めば解る。そこから何も変わってはいない。議員永年表彰の場で議員辞任を捨てぜりふにしたのは、三島由起夫の金閣寺を読んだ人なら解るだろう。大僧侶襲名の時に拒否したらと言った逆説的な行動を主人公が想定している場面。これを永年勤続表彰の場で行ったのは三島由起夫追悼の意味があったのだろうか。
何時でも飛び出せるノーネクタイとジャンパーの服装も石原流の演出なのだろう。それは、立法の府から行政の府に来た自分をアピールするとともに、職員に「汗して働く者が美しい」とアピールする意味もある。
結局、石原慎太郎は東京都知事になって、ドリーム・カム・ツルーなのだろう。その楽しさが東京都民でない北海道の札幌の住民にも伝わってくる。それが、「幸せの拡散効果」ってやつだろう。
湘南高校時代の夢を「太陽の季節」で作家デビューした時に得たように勘違いした人生、その後なにをやっても石原裕次郎の次席に甘んじてた兄、やっと、「太陽の季節」が来たじゃないか>石原さん
これを見たら
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ちなみに、僕は小樽稲穂小学校の後輩でもあるんですよ。