さっさと解散総選挙だろうがぁ
小渕政権の総括をせねば
どうも不透明な「小渕総理危篤説」である。日本と言う国は全ての事件が土日休日に起こるらしい。そもそも金融でも外国市場が空いている金曜日の夜に重大発表をして、日本が土日の間に世界の市場で日本の株価が決まってから市場が開く。
阪神大震災のときも月曜日で対応が週明けの緩慢さに後手後手となった。
日曜日と言えば各放送局が午前中に政治番組を集中砲火している。その間に日本の首相が健康上の重大な局面を迎えていたのに、番組は察知すらできなかった。どちらかと言うと「暇ネタ」の自由党分離に終始していた。
そろそろ小渕政権の締めくくりとして「総選挙ちかし」の番組をやっても良いのに、何を勘違いしたのか自由党に目がいっている。
どうも小渕首相の入院からの「空白の22時間」の情報が疑わしいのは第三者が語る小渕首相の言動の信憑性が疑わしいこと。例えば、「有珠山噴火の事態を受けて政治の空白は許されない」等の情報。もちろん、有珠山だけに限って言った訳では無いが、政治の空白を防がねばならない理由に「有珠山噴火」が出てくるのは不思議だ。自分の生命に何かあったらと思った人間がどのような発言をするか想像してみると良い。とにかく、青木代理が言っているような小渕首相の発言が有ったとは疑わしい。誰かが「作文」したように聞こえる(事実そうなんだろう)。
小渕首相の意識としては「いっちゃん(小沢一郎)とは、ああなってしまったが、事後の調整はよろしく頼む」と言った発言が妥当だろう。その数時間前の記憶に新しい課題はこれなのだから。
これ関連の発言がいっさい小渕首相から無かったとしたら、既に脳溢血で思考力が低下していたのだろう。その状態で「後を頼む」と言ったのなら、一般論として「後を頼む」であったのである。ことさら「首相の意向を受けて」とは言い難い。
野中ひろむの伝家の宝刀
「小渕首相は、あなたたちの心ない質問で心身を害された」なんて発言を鳩山由起夫に向かってする野中ひろむは今後の選挙の戦い方を「弔い合戦」にしようとミエミエの行動を取っている。それに対して「ディベイドは民主主義の基本である。心情論で相手の発言を封じようとする発言はこの国を滅ぼす」くらいの発言をすれば良いのに「議事録削除要請」とは民主党も頭の悪い人間、陣笠議員の集まりになっているのだろうか。
野中ひろむの選挙区を考えれば容易に解ることだが、京都は今の日本でも珍しいくらい階級制度の守られている土地だ。若い頃、得意先の部長に連れられて行った店に、明日でこの仕事も終わりで京都を離れるからもう一度行こうと仲間と行ったら「あなたたちの来るような店ではありません」と門前払いをくった。それくらい、地位と店のリンケージが出来ている土地だ。居酒屋なんて有ったっけ?
そこを選挙地盤にしている野中は「表と裏」の両方の使い分けに精通している。
表は公家に代表される「奉りごと」の世界で、裏は人民を支配する義理人情の「任挟の世界」である。政治が掲げたことを民衆が忠実に従う構造が必要である。そのために京都政府は表と裏のバランスで政治を行った。
武家政治からは「奉りごと」が武力も持ったので京都的公家支配構造は無くなった。が、その仕組みは京都ではいまだに生きている。それが、先の野中発言の背景にある。そこに気がつかない民主党は問題だ。
勝っても負けても日本のために6月総選挙を
村山から橋本、小渕へと首相は変わるが選挙は無い。国民の政治参加の機会を無くして一端選ばれた政治家だけで政治ゲームを行っている。「国民主権」なんて言葉が消えて無くなっている。
重要法案の一部は国民に信を問うレベルのものもあったが、テンポラリーな政治家によって決められている。「数の論理」の問題点は「国会議員の中でのやりくり」なことである。国民の真意なんてのはどこかに言ってしまって、「国会議員の頭数の論理」になってしまっているのだ。鳩山由起夫のブレインが頭悪いのは、スローガンを決めて魂を入れないからだ。「数の論理」古くは「排除の論理」どれも電通とかシマクリのコピーライターの発言に騙されて、国民に伝えたいことが隠れている。考えてもみなさい、広告代理店ってのは良くても悪くても商品を売る機能でしか無いのだよ。政治が広告代理店に頼るのは故田中角栄と電通の枢密関係で解るとおり失敗するのだよ。
自分達は間接民主主義の元、国民の依託を受けて政治を行ってる。だが、国民に問わなければならないときは速やかに選挙という手法にそお判断を委ねる。そのような責任も間接民主主義で選ばらた政治家は持たなければいけない。
さっさと解散総選挙を行わなければ日本の針路は不定になる。