公共事業の是非を議論していない政治

民主党もなにやってるんだか
 どうもねぇ。民主党の「菅直人」ってのは市民派の政治家と言われているが、やってる事は20年前の民青の亜流じゃないかと思わせるほど小心者である。何度かテレビの政治番組で目にするが、日本を背負ったり、民主党を背負ったりの意識に欠けて、個人的行動が全面に出ている。今日も(2000年7月2日)亀井静香との直接対決の機会を自己中心の発言で自己満足して視聴者に「菅直人って馬鹿なのね」って感覚を植え付けている。(本当、馬鹿なんだから菅直人)
 政治家として「明日の日本を考える」なんて姿勢が伝わってこないのは「本人の不徳の致すところ」なのだが、その自覚が無い。市川房江さんの出来なかったことを実現するって言うより、市川房江さんの足元にやっとたどり着いたってこと、そして、そこまで。 そもそも、「公共事業」の有無が選挙の争点ではなくて、ありかたが争点のはずなのに、都市の有権者の票を捨ててまで地方議員の当選を目指した自民党の戦略は、地域経済の中で大きなウエイトを占めている公共事業の地元への還元と引換の自民党公認候補への投票。ここには、明らかに「都市票の切り捨て」があった。
 共産党は「都会で集めた税金を地方にばらまく」なんて表現を使って自民党を攻めたが、民主党は若干違う。たしかに都市対地方の構造をあおりたて地方優遇に特化して地方の票を掘り起こしたのは鈴木宗男。ここは、明確な自民党の戦略が読める。同様に共産党もその逆を突いて攻める。これも明確だった。しかし、民主党の歯切れの悪さは「公共事業が悪いって言っているんじゃないんです。そのやり方が問題だって言っているんです」((c)管直人)のように、主張が「言い訳的」表現で行われる。これは「表現のイロハ」の問題で、石原慎太郎が言ってるように「言葉に乏しい野党」を露呈している。
 「地方に権限委譲」と言うのなら、「公共事業が悪いって言ってるんじゃないんだ」なんて発言ではなくて、「国は、外交と防衛、あとは全部地方で」と言えば良い。なんで、それが出来ないのかと言うと石原慎太郎が言うように「言葉に乏しい」のだろう。
落語の「笠碁」で言えば「おめぇ、言葉に暗いな」となる。

言葉に暗い人間が政治家の土壌を変えろ
 これを書いているのは、実は7月17日だったりする。原稿の締切を過ぎた作家(たって、無報酬だが)の心境である。
日本の政治家には言葉に「暗い」人間が多すぎる。「マスコミは嫌い」とか「新聞は嘘ばかり書く(c)佐藤栄作」とか想いが伝わらないことをマスメディアに責任転化したり、そもそも口を噤んだりする。
パソコンが使えて、インターネットで情報を得ている国会議員層が「明日の自民党を考える会」を旗揚げした。おいおい、明日に自民党は無いのだから「明日の日本を考える会」にしよろなぁ>石原の息子。
デモクラシーの原点はデモンストレーションなのだ。それを支えるIT革命が起きている。40年前のJ・F・ケネディの時代はメディアは「テレビ」だったのかもしれない。で、やっと40年遅れてテレビに政治家が出るようになった。でもね、情報はテレビからインターネットに移っているのだよ。
アカウンタビリティなんて言われるが、公人は公的情報を流す義務を負う。がしかし、今の自民党には結果発表しか出来ない。プロセス開示が出来る者が21世紀のデモクラシーを受け継いでいく。そのためには、「地元密着、公共事業誘導マシン」なんて生き残れないのだよ>鈴木宗男

野党体験、与党体験
 2大政党でもなんでも良い。ただ、党利で動くのでは無くあくまで主権在民、国民のために働く政治を国民が望んでいる。自民党的利権政治は終わりを告げた。何故なら自民党は38議席も少なくなったのだから。
野党としての自民党に魅力を感じないと同様に与党としての民主党にも魅力を感じない。これが今回の選挙の国民の意識だろう。
言葉に乏しい、何を考えても個人は自由だが、政党、政治家は言葉で主張しなければならない。はっきり言って、今、一番野党が弱い時代を迎えたと思う。
与党は存在するだけで存在感がある。野党は「キャンキャン」吠えなければ存在感が無い。そんな時代があった。それはJ・F・Kの時代のマスメディアを上手に利用した戦術なのだろう。しかし、インターネット全盛の時代に、逆に、ノンインターネット層に向けて、テレビを利用してプレゼンテーション出来る党首が求められる。それは、存在すれば存在感がある与党と、何か言わなければ存在感の無い野党で方法は大きく違うと思われる。
土井孝子の追いつめられて瀬戸際の「私は、憲法学者ですから」発言は国民には好感をもって受け入れられていると思う。それは、党の利害関係を調整する「党首」では無く、自己のキャラクターを前面に出し、それを支える集団が党なのだと、野党の原点を見る事が出来る。
社会党、おっと社民党か、ここって村山総理大臣を生んだ政党なのだが、やはり野に咲けかすみ草。残念なのは「与党」体験をまるで生かしてないことかな。

基盤整備のパターンは自治体完結で良いのか
 民主党の考える「公共事業」は地方への権限委譲と表明されている。がしかし、今の日本の「地方」は3500近い市町村で構成されている。道州制と言うけど、具体的線引きは示されてない。そもそも、今の市町村構成が時代にマッチするのか考えてもらいたい。その上で地方自治体への権限委譲だろう。そのへんの議論が欠落しているのが今の民主党なのだ。与党意識が低い。
政治の基本は「民意」は反映されるべきと考えるか、「民意」は流行的で将来を考えてない「その場のトレンド」と考えるかだと言える。
で、提案したい。参議院6年。衆議院最大4年の国会議員の任期は50年前の遺物じゃないか。国政選挙は毎年やろうよ。現在の公職選挙法では現住所3ヶ月以上の原則があるので、移動等が多い4月から3ヶ月過ぎた7月に必ず総選挙を行う。そんな選挙制度にしないと、国民の「4年間の既得権」の政治家に対する「あきらめ」は払拭できない。
半数づつの改選でもでも良い。もしくは衆議院議員の任期2年、参議院3年でも良い。
ITの時代、首相が判断しなければ4年も続く既得権って政治家本位で国民無視だろう。毎年選挙があれば、デモクラシーだぜぇ。投票率も上がる。

そこで初めて「公共事業」の議論ができる
 はっきり言って政治家は働いていない。名誉職だと勘違いしてる者が多い。だって、自分でパソコン使えない人間に出来る仕事って今有るのかぁ?
 選挙向けにのみ作られる政策や公約が政党と国民の唯一のインターフェースでは国民に対するアカウンタビリティが低い。毎週日曜日は民青(って、知っとるけぇ)のオルグ並の街宣をテレビでやったら良い。7時30分から11時まで民放、NHK、民放と放送枠は出来ている。
そこで積極的に議論を出来る政治家を育てて、国民にアピールすれば良い。それがアカウンタビリティの一翼を担う。
民主党の鳩山代表は「だから、議論しましょう、って提案してるのです」と常日頃発言している。では「議論」とは何か、本当に議論してて良いのか(相手によっては、切りつけたり殴り付けたりするほうが良い場合もある)、その形態を見せなければ「議論しましょう」は絵に書いた餅で、「ソフトクリーム」と揶揄される所以でしかなくなる。今の、管直人の議論のしかたが「議論」とは見えない。本当に鳩山党首の言う「議論」を見せなければ、所詮、「議論しましょう」で逃げているとしか思えない。
最近の総理大臣は早稲田大学の弁論部出身らしい。がしかし、当時の弁論部は詭弁部で白を黒と納得させる話術(良く、同窓生に豊田商事とかオウムとか居ないなぁ)を磨く小心者の言葉の遊びだったらしい。それを切り崩すのは簡単だ。管直人では無理だが。
野中の「しらじらしい」に涙した鳩山党首のリベンジは、本当の議論はこんなもんだと見せつけることだろう。出来なければ鳩山党首の言う「議論しましょう」は、逃げとしか受けとめれない。
「議論しましょう」が、こっちの土俵で勝負しよう、こっちの土俵は国民大多数の指示がある、てな場をチマチマとインターネットでやるんじゃなくて、堂々とテレビでやったら良い。
ところで「明日の自民党を考える会」のような若手、民主党からマスコミに出て来ないなぁ

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2000.07.02 Mint