小沢一郎のヒットマン、松浪健四郎

加藤紘一流な「忠臣蔵」
 結局コップの中の嵐で終わった「加藤紘一乱の内閣不信任案賛成騒動」。
歴史に「もし」は無いと言うが、もし出席して賛成票を投じていたとしても不信任案は否決されていたのだから、加藤紘一のドタキャンは「正しい判断」と言えるだろう。
 21時からの衆議院本会議で内閣不信任案の審議が始る直前、本会議不参加と言う敵前逃亡方針を決めた加藤紘一の判断は「名誉ある撤退」と説得されていたが、明らかに「全員討ち死に」の回避である。現に「私と山崎さんは出席して賛成票を投じる」と、あの時は言っていたのだから。
 これって、忠臣蔵で討ち入り成就の後で大石蔵之助が時の幕府の処分案に対抗して「自分は切腹するが、他の46人は忠臣なのだから忠実な家臣としてお世話(再就職)いただきたい」って考えに通じる。しかし、時の政府である幕府は「全員切腹」の方針を変えなかった。このあたりのディベイド(ディベード)を描いたのが東宝の映画「赤穂城断絶」である。
ちなみに、映画が趣味のMintさんだが、日本映画は滅多に見ない。がしかし、これって確か最初に女房に誘われて見た映画だった(ま、本筋に関係ないけど)

不発じゃヒットマンでは無いのだけれど
 日本人はケジメが好きである。「責任を取って辞任」が好きである。本来、不義が発生した時に責任者は「二度と発生しない環境整備」をして責任を果たすべきである。何故なら、何故不義が発生したかを一番良く知る者なのだから。後任者にそれを託すのは合理的では無い。しかし「辞して責任を果たす」風土が日本にはある。
 日本ではドタンバ、最後の砦は合理的であったか、よりも儀に(集団の持つ建て前)叶ったかどうかで判断される。それがまさに先に書いた「忠臣蔵」が後世にまで語り継がれる「理論」なのだ。江戸の都で「討ち入り」なんてクーデターまがいの行為を警備出来なかった幕府の治安体制の不備、暗に手を貸した細川藩の幕府への逆忠義。そんな庶民の「討ち入り成就」を願う心と、治安を担う幕府の建て前の葛藤が、幕府側の「建て前」に決着したことを「日本的選択」として受け入れながらも、割り切れない「本音」が長く伝承を続けたものだろう。
 さて、小沢一郎は加藤紘一すらヒットマンとして試した(利用したって表現するほど小沢一郎は加藤紘一を買っていたとは思えない。ま、両者は工房と厨房くらいに違う(2チャンネル用語参照のこと))。出席せずの判断の前に加藤紘一から民主党の菅直人に「採決を遅らせてくれ」と連絡が入る(朝日新聞報道情報)。菅直人は小沢一郎に「加藤さんは、こう言っている」と連絡(Mintゲスカン情報)。小沢一郎は松浪健四郎に。「おまえの反対演説の時に議場を混乱させろ」と連絡(Mintゲスカン情報)。
 ヒットマンは忠実に仕事を実行。
 が、加藤紘一は最初の「儀に準じる」方針(自分だけは出席して賛成票を投じる)すら仲間の説得により変えてしまった。この点を突いて小沢一郎は「何をやっているんだか」(朝日新聞報道情報)となる。全ての情報を把握していたわけでは無い小沢一郎にとって、菅直人からの情報は「加藤紘一に秘策有り」と受けとめられたのだろう。だから、旧知の保守党の松浪健四郎に指示を出した。がしかし、それが無為に終わった。

死して皮を残せ! の菅直人の判断
 「市民派」と言いながら大局感が無く、重箱の隅をツツク細かい事で得点してきた菅直人だが、「ゴルゴ13」の出動を小沢一郎に依頼してしまった。身に余るデシャバリである。そのことで小沢一郎に作った「借り」を返えせる度量も無い。そこで「加藤さん、議場は混乱している(松浪健四郎コップ事件)から、採決は遅れる(仕事は果たしたぜ)。今からでも議場に来て賛成票を投じないか(小沢への義理)」との携帯電話になる(朝日新聞報道)。
 主義を通して自爆した人間はまだ使い道が残る(日本的「本音」の土俵では有利である)。道理に殉じて懐柔された者は使い道が無い(どの道理に殉じたか色が付く)。
だから、民主党にとっても新進党にとっても、加藤紘一が本会議で賛成票を投じる「絵柄」が欲しかった。が、加藤紘一は抜け殻状態なので応じない。ここで、加藤紘一の利用価値は自民党にも、民主党にも、新進党にも無くなった。単なる「ボヘミアン加藤紘一」で終わった。
 実は「こんなことに成るだろうなぁ」と読んでいた人が居る。これが民主党の鳩山由起夫である。先のサンデーモーニングでも田原総一郎氏に「自民党の自民党的部分をたき付けてどうするんですか」と言いきっている。この事態は自民党的決着で終焉を迎えるだろうと100%では無いが、かなりの可能性を読んでいたのである。その「自民党的決着」によって加藤紘一が(民主党に)価値有る人間なのか判断したい。その前提は「離党」の有無である。民主党は自民党に合する政党では無い。自民党と対決し単独で政権を取る政党である。この長期ビジョンに準じれば、今回の「加藤紘一騒動」も小さな話しである。そんなスタンスが感じられた。
 虎は死して皮を残す。加藤紘一は何も残さないで消えていくのだろう。
 松浪議員の髪を切らせて済むような三文芝居でしか無いのかなぁ。これでは、政治すらもはや死しているのかもしれない。

松浪健四郎コップ事件エピローグ
 衆議院の内閣不信任案の討議で反対演説を行っていた松浪健四郎氏が議場の野党席からの野次に激怒してコップの水をぶちまけて25日の登院停止処分を受けたのが松浪健四郎コップ事件だが、この事件には後日談がある。
 時は2000年11月20日。内閣不信任案の反対演説(当時は保守党に所属)中に野党席の野次に激怒したのが、この野次を飛ばしたのが民主党の故永田寿康氏である。翌日のワイドショーで自民党女性議員から「とんでも無い野次で国会議員の品格を疑う」と言われた内容は「おまえ、党首(扇千景)と何発やったんだ」(永田寿康本人は否定。複数の証言と声紋判定がある)とのこと。
 誰が永田寿康氏に指示をしたのか不明だが、この後の永田寿康氏はホリエモン偽メール事件で民主党の幹部が退陣せざるを得ない状況を作り、国会を混乱させたと懲罰動議が衆議院懲罰委員会に付託されたが、最終的には処分が決定する前に議員辞職、そして2009年1月3日に北九州市のマンションにて飛び降り自殺にて亡くなっている。
 一方の松浪健四郎氏は2003年11月9日の総選挙で落選、2004年3月30日、公職選挙法違反の疑いで書類送検を経て、2005年9月11日の第44回衆議院議員総選挙で自民党と公明党の支持を得て当選した。
 ちなみに、加藤紘一氏を泣きながら止めたのは自民党総裁選挙にも立候補した谷垣禎一氏である。
 それぞれの人生のヒューマン・スクランブル(交差点)の2000年11月の衆議院内閣不信任案事案であった。

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2000.11.23 Mint