密かに進むエネルギー植民地覇権主義

「原発」のタイトルは使わない
 基本的に「原子力発電問題」はエネルギー問題とイコールである。で、エネルギー問題は国策であり、国防と並んだ重要な課題に位置づけられる。そのために、最近の原子力発電に関する議論は10年前とは様変わりして「原発の是非」から「原発容認、がしかし」に変わりつつある。何故ならば、電力供給のステージでは原発が総発電量の半分に迫り、既成事実化している実態を無視できないのだから。
 1989年、今から10年ほど前に北海道電力の泊原子力発電所の稼働をめぐって猛烈な反対運動が起きた。「泊止まればみな止まる」の当時の標語は、泊が全国で37番目の原子力発電所であったことから生まれたスローガンだ。しかし、現在泊原子力発電所は2号機の稼働に加えて3号機の建設まで話しが進んでいる。つまり、みな「37」どころか全部稼働している訳だ。  このコーナーを読んでいる数少ない人は解ると思うが、人類の歴史の中で西暦1500年前後に始まった大航海時代を支えたのが大洋を渡る「航海技術」。この航海技術が世界にもたらしたものが、現在の南北アメリカ大陸の文化の侵略と破壊。やがて、1800年代に入ると「エネルギー利用技術」の産業革命。ワットの蒸気機関に代表される、人間が働く以上の働きをする機械の時代の幕開け。それは、冒険であった航海を物流に変え、原材料植民地主義、もしくは、人的労働力植民地主義を台頭させた。20世紀の国際情勢はこの名残である情勢地図に塗られている。
 その物流の革命が「農産品による経済支配」の世界を構築してプランテーションに代表される、いわゆる「植民地」を作ることになる。
 この時代の流れに竿を刺したのがアジアでは日本であり、いわゆる「太平洋戦争」と呼ばれる時代の制度ストレス粉砕の事象なのである(てのが、大ざっぱな僕の歴史観である)。
 これに併せて前に「これからは、農産品を代表にしたプランテーションでは無くて、一国のエネルギー政策に準じたエネルギー・植民地政策の覇権が先進国間では紛争のネタになる。また、一方では宗教的イデオロギー起因の戦争は一部地域では残る」ってのが僕の主旨だ。
 今では図書館でしか閲覧できないと思うが、「闇に消される原発被爆者」(出版三一書房、著者、樋口健二)って本がある。文章は下手で、一部内容が伝わらない部分もある(笑い)。がしかし、当時の(1980年代)の原子力発電所の実態をレポートしている貴重な資料と思う。
 また、官製報道華やかな昨今、一人の写真家が挑んだ記録として貴重な書籍である。

原子力発電では、いかに情報公開が阻害されているか
 さすがの僕も許せない北電の広報がある。1995年頃だと思うが新聞広告で「原発による放射線は自然界の1/2」ってキャッチコピーによる新聞広告。
馬鹿としか思えない。少し知識有る人には「自然界の放射線+原子力発電の自然界の1/2=1.5倍の放射線」って読めるのだが、広告主は「いかに原子力発電所は外部放出する放射線は少ないか」と言いたいのだろう。また、放射能についてはいっさい語られていない。
 何処の広告代理店が考えたのか知らないけどあのキャッチコピーは「国民は無知なのだ」って前提に立ち、人をなめた広告だった。たぶん、広報課が業者と進めた広告なんだろう。ここで解るのは、原子力発電所を運営する北海道電力で本当に原子力発電の事を解っている人間(もしくは部署)が乏しいってこと。
 「原発の広告をしろ」、「はい解りました」ってことで業者を呼んで広報しただけって感じ。業者も無知なら担当部署も無知だから新聞に「原発による放射線は自然界の1/2」なんて「結局50%増しの放射線被爆になるってこと」をレトリックで隠す表現になってしまう。少なくとも原発の周辺では自然放射線の5割増しで放射線に晒されるってことなんだろう。
 また、加えて「放射能から発せられる放射線の質」って問題もある。前述の本を読むと原発労働者が体調の不調を感じて町医者に行って「原発での作業が原因でしょうか」と聞くと「ガンの治療に放射線治療があるくらいだから、原発で放射線を浴びてガンになる訳が無い」って発言をしている医師も出てくる(1980年当時)。
 単に「勉強不足」って言って笑い飛ばせば良いのかもしれないが、放射線および放射能被爆に関して現在の医療は無力である。そもそも「放射能および放射線」による生命体の侵略」は、毒物と同じように発症に至る経緯に個人差が大きく「完全一意的に原発が原因」とは言えない部分があるから。

定期点検に潜む原発の実態
 原発の運転時のコントロールルーム、これが原子力発電の広告に使われる。それ自体、嘘を写しているのでは無いのだが、誠意が無いと思う。そもそも原子力発電所の普段の姿は100%出力で安定している。機材の破損が無い限り(これとて皆無では無いが)人間が監視する事柄は少ない。問題は出力変動時である。チャルノブイリを例に出すと「日本には黒鉛炉は無い」とかしたり顔で反論する人が居るが、チェルノブイリ原子力発電所の事故は出力低下時に起こった。実は原子力発電所は設計出力(100%出力)での定状運転を想定して作られている。この時は実は一番設計時に考慮された状態なのだ。だから、出力変動時に比べると危険は少ない。
 ところが、日本の原子力発電所では定期点検が義務付けられ、1年に数カ月原子炉を止めて点検する。僕はこの時が一番危ないと思う。航空機の「クリティカル11」(離陸の5分、着陸の6分に事故が集中している)に代表されるように、巨大技術は「遷移」の部分に弱点を持つ。僕の考える「遷移」とは「定状状態から変動状態に移るとき」であり、システムのダイナミズムが不安定になる時の意味である。
 ここに、人間によるシステムの監視が不可欠なようにシステムが設計されており、逆に人間がコントロール不可能なくらい巨大なシステム(だから、コンピュータで自動制御するのだが)に当の人間が介在する設計の妥協が許されている。
システムの設計は前にも書いたように「コンプロミスド・デザイン(妥協の産物)」であり、出来上がったシステムの脆弱さは、何処で妥協したかに起因する。昔の例を上げれば、名機「零戦」も操縦者を後ろからの銃弾から守る防護壁を重量軽減のために取り付けなかったことが「コンプロミスド・デザイン」として妥当だったのか議論の的になっている。
 で、原子力発電所の「定期点検」から見た「エネルギー植民地」に地方がなっている状況を考えてみよう。

定期点検は人海戦術、人の使い捨て
 原発には定期点検が義務付けられている。何故か原発の見学は歓迎と言っている電力会社も「定期点検中なので見学しても原発の事は解りませんよ」とやんわりと定期点検中の見学を拒否する。
 実は「定期点検」こそが原発の実態であり、先に書いたように100%定状運転なんてオートパイロットで飛ぶジャンボ機のコックピットを太平洋上で見学するような無意味なものなのだ。昔の本にコックピットを小学生に見学させて「どうです、すごく機器が多いでしょう。これを全部監視するんですよ」って機長が話したら小学生が「沢山あるけど、全部針は止まってるから、たいへんじゃない」って話したことが書かれていた。まさに、原子力発電は「針が止まってる」時に見学させるようだ。それが、何故かは以下を読むと解ると思う。
 まず、原子炉の点検には従事する人々に厳重な被爆管理があることを示しておきたい。一定の被爆までは許されるが、それを越えた被爆を「雇用者は」させてはならない。
 原子力発電所に従事する労働者を保護する規定だが、東京で役人が考えそうな机上の論理である。この制度のおかげで原発の定期点検を請け負う下請けでは従事する労働者を「日雇い契約」とし、一定の被爆をしたらお払い箱(解雇)している。制度が「一定被爆以上は従事不許可」なのだから、一定の被爆が必然の職場では一定被爆に達した労働者は不要(解雇)になるのである。だから、一定被爆必須の職場に「日雇い」契約で労働者を配備せざるを得ない。それが「法律に忠実&事業としての経済性維持」の方策なのだ
 一方、従事する労働者も「被爆が基準に達したので、明日から来なくて良い(解雇)」なんて言われては生活が成り立たないので被爆量を(自分を守る(生命では無く、雇用の面から)ために)偽る。それが原発の定期点検時の被爆管理の実態なのだ。
 会社としては「被爆量を本人がごまかして報告してるのだから、被爆管理責任が当方にあるとは考えない」ってことになる。当の本人は解雇されたくないからアラームメーターが鳴らないように、服の下にしまったりする。
 生命を被爆から守る制度が、生命(生活、雇用)のために形骸化している。それが、原発の定期点検の作業者(多くは下請けの「日雇い」労働者)の実態である。
そして、それは、原発を立地した地域の雇用の実態にまで広がる。下請けも含めて請負企業は「被爆経歴が無い労働者」をあさる。何故なら、先の被爆基準があるから。で、実態は原発の定期点検なんかで不良箇所が見つかるとその修繕には「被爆覚悟」(作業時間10分)の決死隊が必要になる。しかもその決死隊は技量や経験が有る「被爆者」では制度的に出来なくて、被爆素人を地元から漁ってこなくてはいけない。それ故、何も知らない農家の引退した老人とか、フリーターの若者とかを漁ってくる。
 熟練労働者の「被爆」が基準内になるまで定期点検に時間を避けない、何故なら、発注元は一刻も早く原子力発電を再開したいのだから。
 故に地域は「満貫成就」まで高額で原子力発電所の定期点検に従事する労働者を買い漁られる。で、一部の人には放射線障害があらわれる。
 1年後に死ぬ危険の回避に対して明日死ぬ危険の回避。この両者を天秤に掛けると、人間は後者を選択する。あたりまえである。放射能障害は個人差が大きい(らしい)、がしかし、餓死は個人差は少ない、確実な死である。であれば、餓死を回避する「究極の選択」は正しい。
 その中で数は少ないが「原発被爆者」を原子力発電所は確実に生んでいるのである。なんせ、被爆必須の職場なのだ、炉心は。
 広島・長崎での「唯一の被爆国」。まだ、こんなごたく並べている無能な人々に言いたい。日本だけではなく、世界中に、チェルノブイリやスリーマイル島では無く、日常的に被爆している人達が居るのだってことを。そして、これらの人の被爆の上に現在の電力が供給されている事実を直視せよと。
 幸いなことに、この文章はMS/DOSのパソコンで、しかも、太陽電池で充電したバッテリーで動かしている。電力会社の電気で動いているのは、FTPする時と、収録されているサーバーだけである。がしかし、そもそもインターネット自体が電力で動いているのであり、放射線被爆者を出しながら今後も原子力発電を続けるかどうかは、電力会社の判断ではなく、政治の判断(国民の判断)だろう。
 ちなみに僕は、電力供給が止まる事態を想定して、120W/h(テレビとラジオ用)だけは、太陽電池パネルで補完できる設備は整えている。

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2000.11.25 Mint