第二次森内閣ですかぁ

日本の政治は世界から遅れつつある
 もはや何も言う事は無い。日本の省庁再編成を控えて新たな布陣として決定したいわゆる「第二次森内閣」。ま、どれくらいの国民が関心を持っただろうか。指示率が10パーセント台の森首相が内閣の人事をいくらいじっても国民は無関心にならざるを得ない。「森ではNOなんだ」って言っているのに、何を勘違いしたのか、内閣再編成。あのね、あんたではNOなんだって言っているのですよ。だから退陣するかと言えば、再組閣ですかぁ。国民の声が届いていないですねぇ。大いなる喜劇ですが、それに気が付かない森陣営なんですなぁ。
 橋本が出る事、宮沢が続投なこと、全て看板無しな自民党の旧来の流れの「瞬間的」発露なんだろう。マージャンを体験した人は解ると思うが、自分の配杯を見て最初に考えるのは上がりに向けての作戦。既に場にイッピンが4個示されてたら国士無双を狙えない。どうも、この第二次森内閣は、海底狙いのマージャンではないかと思う。
アメリカが大統領選挙で混沌としているから救われるのだが、世界的には「第二次森組閣」なんてのは袋叩きである。だって、「馬鹿ナンダモーン」

政治家が政治を作って押しつけ
民主主義の考え方(理念)とそれを仕組みとする議会制度のギャップは有る。諸外国を見ても民主主義国家であるが政治制度は多様である。だから、日本だけが駄目な制度とは言わないが、全ての制度は「理念」に遵じていると胸を張って言えるから存在する。唯一日本の制度を除いては。
 自民党支配の日本は、それが有能な自民党の支配であった時は、結果として是であった。例えば、吉田茂、例えば佐藤栄作、この時代は自民党が強かった。それは自民党が有能な指導者を仰いでいたから。この場合の「有能」とは国家と自民党をゲマインシャフト、運命共同体と認識し、その上で政策を立案していたから。
 今の自民党は「代議士のサロン」でしかない。選挙で当選することだけを考えていればあとは親分に従えば良い、代議士は選挙で落選したら「只の人」に落ちるのだから。地域での選挙の勝利こそが自分のレーゾンデートルである陣笠議員。そのような意識で「代議士稼業」がまかりとおった時代は自民党にもう訪れない。国民から見て有能な指導者を擁立していないのだから自民党は弱体化したのだ。森は単なる「象徴としてのデブ」でしか無い。とても有能なリーダとは呼べない。その看板で参議院選を戦えないのは自明の理だ、がしかし、政策二の次、選挙優先の代議士が結局生き残った自民党って集団では、新しい時代を担えない、いや、当選してこその存在感なのだ。日本なんてどうでもよい、当選して数の中に加わりドンに忠誠を誓うのが国会議員の務めなのだ。そのように戦後50余年やってきたのだから、これからもやっていく。そんな時代じゃないって言っても通じないもどかしさがある。
「民主主義は数、多数決で何が悪い」。かつて与党連合を批判した声に亀井静香(仮名、笑い)が答えた。民主主義は数?、票決制度と主義をゴチャマゼにしてるなぁ、徹底的に、本格的に、本質的に、遺伝子的に、こんな発言をする代議士を選んだ国民は非国民である。物事が見えない人間を選んで日本の為になるのかなぁ。

何で「橋本」を選んだのだろう
 僕にとって「橋本龍太郎」は政治家としてカスである。このカスが生き抜いて政治の世界では総理大臣にすらなったのは「自民党的体質」と批判させてもらう。いや、批判では無い、政治の民衆からの遊離は村山富市が火をつけ、橋本龍太郎がとどめを刺したのだ。
その言ってみれば「旧来の自民党的ドン」の側面の橋本を内閣に迎えるってのは、普通に考えると「地雷を周囲にバラマイタ」のです、しかも自分が踏む布陣を敷いたのです。森首相は馬鹿だから深慮遠望なんて何もない、がしかし、何故「橋本龍太郎」の復活なのだ。どう考えても「自民党的」である。
橋本スキャンダルはすさまじい。それを全て押さえた(このあたり、ジャーナリズムは腰砕けである。)のは「自民党的日本の仕組み」なのである。それって、化石くらい過去だろうがぁ。いちいち例を挙げないが、当時の科学技術庁長官であって、山東昭子が会議をスッポカシタ時に一緒にゴルフしていたのは橋本龍太郎だったのだ。そんな、国会、国民をなめた奴が総理大臣になるのがおかしい。
 でも「自民党的には」(笑い)おかしくないのだろう。そうそうに橋本は「次期総理大臣」目指して(なんや、それ)自民党的活動を進めている。「行革は俺の手柄だぁって発言は一理ある。が、行動には何の説得力も無い。選挙で負けた最高責任者であったのだから。
橋本総理大臣なんか未来永劫絶対に無い。有ったとしたら「超短命内閣記録更新」のために、記録狙いで有るかもしれない。
 橋本を入れたってことは、森は自分がリーダでは無いと認めたことであり、そこに勘違いリーダが隙間を埋めたってのが橋本だろう。

自民党末期の、「お札」は誰も引きたがらない
 今回の「加藤紘一騒動」にしても、「亀井静香言いたい放題」にしても、行き着く所は自民党政権の継続をプラットフォームにした身の振り方って線路で演じられている。
基本的に自民党は無くなる。その前提に立って考察を、意見を表明する人は少ない。
無くなる自民党の中で、今でも「次の総理大臣」と言われ甘やかされてる代議士が多い先の「橋本龍太郎」も省庁のカヤに囲まれて本質は見えない・

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