社会党は政治的に潰されたのか
社会党って何だったのだろう
僕が就職をひかえた頃(1976年?)には、オイルショックもあったが決定的な事は戦後の日本復興が工業化社会によって成り立ち、国民に「裕福」を与えながら生長を繰り返した時代だった。その「時代」が意外と脆弱な基盤によっていると解ったのが「オイルショック」であり、野放図な工業化社会がもたらしたものが「公害」であった。
戦後の日本の復興の要は「喰える」であった。とにかく仕事があり、サラリーマンとして就労するのが可能な社会を築くのが個々人が感じる「復興」であった。考えてみると戦前の就労の目指すものは軍人。つまり「公務員」であった、それが軍事終焉と共に「サラリーマン」になったのだ。それしか選択肢が無かったかと言えば「経営者」なんて選択肢もあったのだろうが、国の政策として1億総サラリーマン化に向かった。
それが、国民を「喰える」状態にする最短の政策であった。その中核になったのが炭鉱であり国鉄であり、いわゆる昔の「3公社5現業」の構造である。これって、戦前の軍人と呼ばれる公務員が一見民間に見える公務員と変わりは無い。結局、国が「喰わせる」公務員が戦後の混乱期を支えたのだ。
戦前と違うのは、民主主義の名の元サラリーマンを束ねる「組合」が存在したことだろう。これが新しい層を形成し、政治の面では「社会党」を形成した。
その必然は解るのだけれど、スタート時点の理念がボロボロに形骸化するまでよくまぁもったものだ。
社会党の形骸化は10年で訪れた
「組合」これが束ねる機能を持ち、労働者の代表であった時代は意外と短いと思われる。たぶん、「プロレタリアート」なんて意識を労働者に持たせた時代は池田隼人の「所得倍増計画」が始まった昭和30年代前半で終焉したのだろう。
実は自民党は資本家の政党では無くて、1955年から「一人勝ち」故の余裕があって、国民の要望を匠に吸い上げていた「国民党」として長期政権を維持していた。だが、社会党は「プロレタリアート」路線を変えなかった。何故なら、付き合っているのが自民党の企業に対して社会党は組合だったのだから。実は、その裏に存在する「国民」を見据えていないと政党政治は存在しないのだが、これに気が付いていたのは自民党だったのだ。単純化すると経営側(資本側にならなかった日本の良さがあるが)と労働側はともに「国民」であった時代故に、自民党は国民政党たりえた時代だったのだ。
本当の資本本位経済(これを、「資本主義」とイデオロギーで捉えることが勘違いなのだが、1970年代はイデオロギー化していた時代であった)では、富の蓄積が新たな富を生み、資本が資本を生む制度なのだが、これは日本では実現しなかった(最近株主尊重って面でこの道を歩始めたが)。
にも係わらず、「資本家vs労働者」の構図を(実際は日本の場合どちらも「労働者」なのだが)争点にした社会党は完全に「勘違い」の世界に陥った。
国鉄、電電の民営化の副産物は労働者階級の分断
日本に資本家と労働者の明確な対立は無いと思うが、それでもマルクス主義的な「世界同時革命」なんて幻想が1970年代までは世界に蔓延していた。この母体は動労組合であった。「労音」なんて考えてみればKSDの政界請託のような部分が隠されたのは、このようなグループの活動に負うところが大きい。
考えてみると共産主義の行き詰まりは人類が工業化社会に移行しつつある時に農業社会の考え方を世襲していたこと。生産が集団で行われていた時代は過去のものになって、エネルギーを使ってものを生産する社会が現れたのに、農業生産を基盤とする社会の規範を時代に合わせるように「労働者と資本家」と置き換えてもミスマッチは防げない。
農業の集団協同生産方式は工業化社会にそのまま労働者階級とは置き変わらないのだった。それは工業化社会では労働者は労働を通じて社会の豊かさを甘受することができるから。
働いて得た収入はマクロで見れば他の労働者の生産への対価としてとして乾留する。人間が太陽の恵みのみを唯一の生産行為として時代は過去のものとなり、人間がエネルギーを利用して人間へものを供給する時代それが産業革命以降の流れになってきたのだから。
人間が階級によって他の人間を「搾取」する構造から抜けでることが出来た。それが工業生産だったのだ。そこには社会を構成する「搾取、被搾取」の構造が無くなったのだ。
足元をすくわれても気が付かなかった社会党
昔の3公社5現業の時代は産業の黎明期で民間に産業が育たず、国が労働者を雇い事業を行う事が適切な時代であった。そこには雇用者である「資本家としての国」と被雇用者である「労働者である国民」が存在した。その意味で農耕社会から資本本位社会への橋渡しの構造と言える。
その構造は民間社会が経済的に自立できるようになれば不要な形態である。まさに中曽根首相の言う「民活」の時代背景が整いつつあった。その時に大切なのは「親方日の丸」層の自己改革である。社会構造が「親方日の丸」では無くなるのだから一見「労働者と資本家」に見える階級の位置づけも変わってしまうのだ。そしてその位置づけすら当時の日本でも特権的異質な構造であったのだ。資本家=国って層は発言力は強かったかもしれないが、国民としてはマイナーな層だったのだ。それが如実に現れたのが昭和50年秋の当時の国鉄の「無期限スト」だろう。当時は珍しいNHKでの労使意見交換(考えてみると田原総一郎の番組は原型はここに有ったのかもしれない)生放送を通じて国民は動労組合の主張にNoと答えたのだった。
この流れが無理無茶と思われた国鉄分割民営化、電電公社民営化へとつながる。そして、国鉄40万人の労働組合、電電30万人の労働組合が「民営化」してしまった。労働組合は危機感をもち旧電電の山岸手動で大道団結を計ることになる。
この事は労働組合をバックボーンにする社会党に大きな変革を迫ったが、石橋を書記長に変えるくらいしか意識の変革は無かった。で、70万人もの支持基盤を失った事実になんら対処しなかったのだ。
資本本位経済社会に労働層は無かったのだ
これも日本的なのか、ホワイトカラーとブルーカラーって名称が有った。これは今では上級公務員のキャリア、ノンキャリアくらいの意味しか持たないのかもしれない。
そもそも「資本主義」って言葉を使って日本を定義し、そこに特権的資本家と抑圧される労働者って構図を描いたのは誰だろう。僕は社会党のマスターベーションだと考える。そもそも世界的に「資本主義」なんてイデオロギーは無いのであって、それは日本のローカルワードとしてのみ存在した。「資本主義」は政治では無く「資本本位な経済形態」なのだ。その経済形態では資本家であることが有利である。ただそれだけである。
対する「労働本位形態」なんて無い。単なる経済形態なのだから。にも係わらずこれをイデオロギーに感じてしまった不幸が1970年代の学生運動の基幹思想にまで昇華してしまったことである。経済形態と政治制度を混同してしまってるのだ。それは、当時の社会党、そして今も同じな共産党の決定的ミスリードの証拠である。
労働者と言う名称は「資本本位経済」では雇用の形態を利用した新たな生産活動の形態なのだ。日本で言えば番頭や丁稚がサラリーマンって制度に統合されたのだ。で、サラリーマンが常識になった時代は実は昭和30年代の池田首相の「所得倍増計画」あたりに端を発しているのだ。つまり、昭和30年代に印篭を渡したのに、昭和60年に支持母体である電電、国鉄を中曽根が切り放すまで30年間まったく危機意識無く社会党は我が世の春を甘受(我が世の春に狂うかな)していたのだ。
中曽根は印篭を渡したのだが、実は30年も前に民間で「サラリーマン」って層が増えてきたときに、これを政治に吸収したのが自民党だったのだ。そして21世紀を向かえた今。「都市の反逆」、「長野県、田中知事」と確実にサラリーマン(ま、植木等の無責任野郎の映画すら時の自民党のイメージ戦略と僕はゲスカンするのだが)が政治を握って来ているのだ。