いよいよ自民党退陣迫る

逮捕者二人では与党はもたない
 予想通りと言うか、村上氏が逮捕されて、明日の昼には平成13年度予算が衆議院を通過する見込みになった。これから、政治バトルが始まるのだ。村上氏の喚問はなんだったのか、検察や警察でない国会が疑惑解明など叫んでも結局時間を無駄使いしただけではないか。それこそ「専門家」に委せておけば良い。2月26日の村上氏の議員辞職でシナリオは完成していたのだから。予算議決に「まだ十分に議論していない」なんて反論する野党の意見は、無駄に時間を浪費した自らに起因していることを反省すべきだ。時間を無駄使いして「まだ十分に議論していない」は無いだろうに。
 森首相の首をすげ替えることすら出来ない自民党に、森を替えろと迫る馬鹿な野党。まったく、戦略も戦術も無い陣笠野党にも驚いてしまう。今大切な事は自民党政治に替わる政治を用意することだ。政党のイデオロギーに縛られて「小異を捨てて大同に付く」決断が野党各党に求められてるのだ。土井のオバチャンだって活躍の場があるし、共産党にだって活躍の場がある。それを、野党根性丸出しに、次の首相を攻撃する事ばかり考えていて、自ら政権を担う気概も責任感も無い旧来の野党のままなのは情けない。
今一気に自民党を押し倒さなければ自分達が政権をとることはできない。一部に野党ボケが進行しているのは困ったものだ。

自民党を支えてきたのは右上がり経済生長
 借金してでも現在の貨幣の流通を促進する。やがて景気の回復と共に借金は驚くほど軽く返済できる。そんな経済原則を信じてやってきたのが戦後の日本の経済政策。それは、1990年までは正しかった。社会全体が右上がりの生長経済に支えられ、得た利益で土地を購入しておけば、やがて本業を賄う資金調達機能を果たすようになる。土地神話は企業の経営の柱として「神話」では無く「合理的手段」として定着していた。
 貨幣の価値は未来に向かって低下する。資産の価値は貨幣の価値の低下よりも少ない。この原則が支えていたのだ。多少の借金は経済生長により帳消しになる。そんな時代の終焉が、とりもなおさず自民党の終焉を告げるのだ。これは10年も前から芽生えていたのだ。
 経済生長とは何か、それは富の蓄積では無く貨幣の流通である。前にも書いたが、経済とは流れる価値の総量である。蓄積された価値の総量では無い。
分かりやすいたとえ話をしてみよう。夏休みに子供村が出来た。ここでは1週間子供銀行の銀行券で生活することになる。各自若干の資本を与えられ、実験終了時に同額を返済することになる。最初の月曜日、火曜日は若干の資本で商品を仕入れ、これを加工販売する仕事が起こった。具体的にはジュースを仕入れ、これを冷やして売るとか、氷を仕入れてかき氷にして売るとか。
仕入れと売上の差益が個々の子供達に生じる。子供達は経済活動の原理を学んでいく。しかし金曜日に異変が起こった。小銭を蓄えた子供達は生産者としてよりも消費者として蓄えた利益の恩恵を甘受しようとした。80円で仕入れたジュースを100円で売って得た利益で今度はジュースを買う側に回ろうとした。で、その時、今まで100円であったジュースが200円になっていた。需要と供給のバランスが崩れたのだ。今までジュースを売っていた店は軒並み販売を止め、得られた富で購入側に回ったのだ。村には10数件あったジュース屋は1軒になってしまった。誰もが暑いのでジュースを求めるが、ここ1軒しか無い。欲しい人が沢山居るのだから当然ジュースは値上がりする。
 村で保有する貨幣の総量は替わらない。これを月曜日、火曜日、水曜日と着実に個人の富みとして蓄積したために、流通総量は極端に少なくなった。流通量が少なくなると商売が滞る。蓄積された富を流通に回さなければ村の経済は回らなくなる。1杯のジュースを売って得た利益の2倍を払わないと1杯のジュースが手に入らない。そこで川に水を飲みに行く子供も出てくる。ますます、貨幣は使われなくなる。商売はまったく開店休業状態になる。それが、富の蓄積と経済の停滞のモデルである。
 だが、経済生長に裏打ちされるのならば、紙幣の流通促進のためにジャンジャン紙幣を発行すれば良い。ジュースが仕入れる対象から「木から果実をもいでくる」に替わると、大きな生産行為が行われた訳で、無から100円のジュースが生み出されたのだから、新たに村に100円を補っても(印刷して流通させても)経済に影響は出てこない。
 このような暗黙の了解の下、紙幣は増刷され市場に供給され続けた。そして、市場は流通する貨幣を富として蓄積(吸い取って)きていた。吸い取られた分また印刷して流通させれば良い。短期的には、蓄積された(特にそれがタンス預金であれば)紙幣は無いものとして考えて良いのだから。その結果流通しなくなった金をなんとか動かしてバブル期の金余り現象が生じたのだ。
がしかし、余った金は行き場を失ったが、しょせん蓄積された余った金で、蓄積した個々人には債権が残る。余ったからドブに捨てたと言っても預かった債務は帳消しにならない。それが、この10年のバブルの後始末である。
森の果実を得ていないのにも係わらず(あ、この場合の森はフォレストの事で特定の個人名では無いです)、蓄積された「非流通貨幣」を補う紙幣の供給を続けた結果、今の構造不況と呼ばれる経済状態が発生したのだ。子供銀行は短期間だったので紙幣の増刷を行わず経済が破綻して日曜日を向かえる事になったのだ。
そして、貨幣流通最優先で良かった時代は去った。右上がりの経済の終焉を向かえて、的確な新たな施策は無かった。それが「空白の10年」である。

加藤紘一の乱に第二幕はあるのか
 ズバリ有ると思われる。ヒットマンの松並にコップの水を投げさせた小沢一郎がキーマンとなるのだが、新進党が民主、社民、共産の各党の連携をコーディネートし、ここに自民党を離れた加藤紘一を迎え、暫定連合内閣ではあるが政権を担う体制が出来れば、自民党から政権を奪取できる。先に述べたように「小異を捨てて大同に付く」気概が今の野党個々に問われてる。野党ボケの連中が決起しないのなら、日本を壊す選犯である。建て前言ってる場合では無いのだ、自民党を倒す千載一遇のチャンスが目の前に有るのだ。あとは、そのチャンスを「掴む」ことだ。
 加藤紘一と言えど自民党内の野党である。「わたしがやる」と言うものが今求められている。実は今の次期を逃しては野党の政権奪取はかなり先になる。村山社会党内閣を作ったのは当時のさきがけの鳩山由起夫達の若手議員達であった。ありもしないのだ、社会党の首相なんか、でも、実現してしまった。
 当時の若手には「誰を担ぐか」が最大のテーマであったろう。そして今、自ら手を上げれば総理大臣の椅子は近い。その時に後込みしているのでは永久に、国会議員なった意味すら失うであろう。加藤紘一の第二幕。それは、自ら動けば開幕するし、動かなければ永久に無いのだ。で、僕は小沢一郎の挙動に着目している。たぶん小沢一郎の下、第二幕の立ち稽古は行われている。そして、配役を見ると主役は加藤紘一。
 要は政治家としての志しの問題になる。万年野党の「反対を唱える政治家」を「労働者の代表」みたいな幻像ので国会に送り込んでいる各種労働組合、マルクス、レーニンは正しいとアナクロ以前に宗教化している共産党、憲法養護が使命と勘違いしている社民党、「よらば大樹の影」のモラトリアムを上部に抱く民主党、おまえらは、自ら国を動かす気概があって国会議員になったのか。今、そこを問われているのだ。明治維新の時代に刀を手にして桜田門外の変を行った者と同じ立場に今居るのだと意識を高めよ。それは、3月中であろう。後年、この次期を「2001年3月」の変と呼ばれるように歴史に刻まれるようにしたいものだ。

蛇足>扇千景総理大臣の目は有る
 ここまで自民党がひどいと、破れかぶれで実現してしまうような事は有る。森首相で参議院選挙が戦えないのなら誰で戦えば良いかと言うと消去法で扇千景しか残らない。
 なりふりかまわぬ「選挙内閣」なら扇千千景だろう。参議院議だし今回改選組だし、自民党には人材が居ないのだから。(正直言って離婚経験者の小泉では選挙は戦えない。女性票ってのは実は真実を見抜く洞察力を男性票より持っているのだ)。
 4月1日(エイプリールフールの日です)森現総理大臣は「私は旧来の自民党的体質の責任を取って「名誉ある撤退」(おいおい、何処かで聞いたぞ)を決断した。後任には扇大臣が最適と思うが、これは民主主義の仕組みに計って結論を出す事。みなさんの判断に委ねたい」なんて事を言うのだろう。そして「しゃーない、扇で行こう」みたいな雰囲気が自民党に起こる。で、コンセンサス下手の鳩山由起夫は「鳩が豆鉄砲くらったように」あたふたして、参議院選挙で思った程の議席を得られない。
 扇千景と戦うことを前提に戦略を考えているのかなぁ今の民主党。
「目は有る」でぇ。

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2001.03.01 Mint