市町村合併機運と当事者意識

市町村合併に潜む政策ミス
「森進一」って演歌歌手がいる。「集団就職」で東京に出てきて、苦労を重ねながら演歌歌手としての地位を築いた。
「集団就職」。時の池田首相の「所得倍増計画」で工業化に邁進した日本が「金の卵」と地方から労働力を集めた世相のキーワードである。これは事前に読めていた。今の中国でも同じように都市集中が進んでいる。工業化を政策で決め討ちすれば、その恩恵をこおむる地域に人は集中する。人が集中すれば派生的仕事を求めてさらに人は集中する。日本の地域の人口構造の変化は「都会に行けば喰える」って地方で職を失った人々のやむにやまれぬ選択肢の歴史なのだ。
 国を富ませるために効率優先を選択すれば、結果は見えている。だが、国を富ませることが悪では無い。国を富ませる国策によって起こりうるプラスとマイナスの要因を分析し、的確に対処していく姿勢が欠落していた。それ故に、「過疎が進み過密が進む」って時代を受け入れていたのが昭和30年代からえんえんと続いてきた。それから30年以上を経ても変わってないのかもしれない。
 「地方の時代」って幻像が何故起こったのか。それは、精神主義が経済の実態を理解しなかったから、もっと強い言葉で言えば「人間は衣食足りてから、能書きを聞く」ってこと。神奈川県の長洲知事は、結果的にスローガンだけで、何も残さなかった。
 自民党に政権を委ねて、地方の親たちは「集団就職」で子供を手元から失い、それでも親子の関係が残った時代、それが無くなって、今、地方は老人のみの社会になった。
 そんな事は、池田首相が「所得倍増計画」、「日本の工業化」をとなえた時に解っていたはずだ。それを口に出せない与党は解るが、野党だって新たに形成された労働者に頼って「国策論議」なんが全然してなかったのだ。
正直言って「市町村合併」を叫ぶ裏には「過疎過密を過疎側から突っ込まれたく無いので、整理して置こう」って旧自治省の「ツケの清算」が見えてくる。
が、一番意見を言わなければならない市町村の組長はこの点を突いて論議をすることが無い。「今までの国策により翻弄された地方」なんて意見を中央官庁に向けて発信している組長は居ない。「影でコソコソ」ってのは居るが、所詮「保身」である。「命を賭けて、国策の欠陥を突く」ってのにはほどとおい。
 「市町村合併論は経済優先、国力優先の国策の過ちを認めてこそ協議の場が開ける」なんて意見を表明する組長が一人くらい居ても良いのだが。

意見を言わぬ当事者。地方自治体
どうも市町村合併の検討組織に当事者の市町村役場の職員を加えてはいけないようだ。事実、北海道でも市町村合併に積極的な意見交換を目指しているのは「芽室町」と「釧路町」くらいのもので、「新総合計画策定」なんてのをインターネットを通じて行ってるニセコ町でには「市町村合併なんて検討にも値しない」らしく、長期計画で「ニセコ町の人口は平成22年で4500人」なんて言っている。まったく、平成22年にニセコ町が有るのかぁ? その時定年退職してるから関係ないってことで当事者意識すら無いんじゃないのか。(残念ながら僕はニセコ町民では無いので、そんな事を掲示板に書くのは控えている。
 まったく馬鹿げている。人口4000人程の市町村がこの改革に対して生き残る手だてを考えるのが住民本位なのだが、まったく役場本位でしか無い。強制執行で合併させられる危機感すらまったく無い。もはや「無能」と呼ぶしか無いだろう。
 結局、地域で最高の安定職場に甘んじ、「お山の大将」意識が抜けないのだ。これは、役場出身の組長故の弊害である。現在の北海道庁、札幌市、共に同じである。役場出身者が当選しては住民の直接選挙のメリットが生かされず、役場の臨時職員(特別職)も元役場職員では悲劇である。全体が役場の論理でしか無くなり、住民意識を感じる感性が失われてくる。
 そもそも公僕には「奉仕の精神」が大切なのだが、組長が公僕出身では「権利の精神」ばかりが前面に出る。堀だって、桂だって「組合い」に配慮する。そんなの全然住民からの直接選挙で選ばれた住民の代表たる組長に関係ない事案なのだ。一部の利益へ全体の利益を優先させる、それは選挙対策でも何でも無い、なれ合い政治なのだ。ひたすら次回の選挙での落選を恐れ選挙での当選を最優先課題にする施策である。住民の審判を真っ向から受けようって姿勢は全然無い保身の政治(行政)である。これでは地方は死んでしまう。
 地方自治には国政に無い「直接民主制」の制度があるのだ。これが結果として生かされてない地方は役人の蹂躙により衰退するのだ。札幌市がそうであり、北海道庁がそうなのだ、その反面教師が東京都であり長野県なのだ。
 役所の職員と、直接選挙で選ばれた組長は対立しなければならない。その葛藤の中に新たなアイデアが出てくるのだ。役所の職員と直接選挙で選ばれた組長が相思相愛ならば、地方自治の直接民主制の精神が生きていないのだ。利害が対立し、その調整に意見を交わす。それこそが民主主義なのだ。意見の対立を避けて政策合意を事前に交わし、職員合意の身内を組長にする、そんな考えは地方自治の精神を蹂躙する行為である。直接組長選出制度を寝技で絡めて保身する役場(職員)による役場(職員)の為の制度なのだ。

最も効率的と言われる30万人市町村を考える
 僕は決して「30万人」って規模の提示に反対するものでは無い。何故ならば、札幌市が行政区の人口を30万人目処にしてるのは効率的であると思うから。ただ、区長制度がなんも機能していないのは桂(市長)が悪い。桂(市長)には「議会事務局参与」程度の頭しか無い。札幌市の構造的欠陥により市長になっただけで、170万札幌市民は「参与」に行政を委ねている不幸を身を持って感じている。
 区長が市長にふさわしい人材で、市長が係長なのが札幌市の不幸なのだ。
それはともかく、人口30万人てのは一つの目安だと思う。そこで地方自治なんかを語れば良いのであって、人口4000人くらいの町で「長期計画」なんて行っても、札幌から見たら町内会の規模以下なのだから、笑い話なのだ。これはニセコ町の方々に申し訳ないのだけれど、人口4500人の町では自我よりも外部環境に目を向けなければいけない。この外部の変化(市町村合併)に目を塞いで自らの夢を語るのは現実的で無い。敗戦直前に竹やりでB29を落とせると思った精神主義至情論で、現実的には虚しいのだ「平成22年を見据えたニセコ町総合計画」は。
 地方自治を考えるときに、同じ規模でなければ人口4000人も人口170万人も同じ「地方自治体」って扱いでは事情が違いすぎて物事の本質に迫る論議は出来ないだろう。
本当の「地方の時代」のためには、村・町・市って規模による制度の違いを是正して、地方自治体として共有できるバックボーンを形成するべきなのだ。そこで初めて「地方自治体」って土俵が出来る。
 市から見たら町内会規模の町村が町内会長では無くて町長なんて肩書きで出てこられては、「地方自治」を語りたい市から見れば迷惑でしか無い。行政が「市・町・村」別に構成されていた時代は過ぎたのだ。「都市からの改革票」が選挙で出てくる背景は、村も市も同じって地方自治制度の欠陥なのだ。都市に負けない地方を作るためにも、市町村合併が大局的に見て、意味があるのだ。
 しかし、北海道の現在の212市町村を考えると、人口30万人で切ったら19自治体、この中で札幌市に着目すると170万人が居るから残りを再度割ると13。結局北海道は札幌市+13自治体になってしまう。今の212と比べてあまりにも格差がある。これが素直になれない理由である。

北海道では最大企業が役場っての多い
 考えてみると、北海道の市町村のたぶん半数は地域の最大の事業所が「役場」であろう。特に後志支庁は顕著で、詳しくは僕のここで見て欲しいのだが役場の自己主張が出来ていない。
そのような地域で役場が「閉じた公僕」に徹していては地域は疲弊する。逆に、大都市で役場が積極的に地域を産業面でリードすると汚職につながる。実際はこの逆の事象が起きている。
 何故かと言うと、今の地方交付金の制度では一定の人口規模(おおむね30万人)を越えた辺りから民間への事業委託等で財源に余力を生み、その余力で企画部門を強化することができる。これは弊害である。本来規模が小さい所ほどこのような地域活性化に向けた要員を強化しなければならないのだから。
 市町村合併は今の財政制度から割り出されるのが30万人規模市町村。しかし財政構造を変革すると得られる最適規模は変化する。ここの論議が無い。旧来の制度で実証される規模30万人を推進しながら、一方で新しい地方財政のあり方を論議する。
小泉首相の叫ぶ「改革」のアイデアに新旧混合の感があるのはまさにこの点である。何処を改革すれば何処に影響が出て全体の整合制を壊すか、ここを見きわめないと「改革」から得られるものが「破壊」になってしまう。
 ただ変えれば改革だとは言えない。がしかし、こと、市町村合併については中央主導(東京馬鹿主導)で整合制無く勧められている。地方が論理的な意見を叫ばなければならない。
 ちなみに、北海道の場合現在212市町村あるが、「最適規模30万人」で切ったら、14市町村になる勘定にである。それでも、212有る市町村の役場職員は何も発言しない。212が14になる、現在の支庁単位で一つの自治体になると考えた場合の議論が欲しい。