規制緩和と北海道ニセコ町
北海道規格(スタンダード)が有っても良い
起点を「戦後」に求める時代は終わったのだが、基本的に北海道の歴史は日本の20世紀と如実に合致している。黒田清隆の北海道開拓使の時代から北海道は国政の目玉として利用されてきた。考えてみるとこれって豊臣秀吉の「朝鮮征伐」と同じであり、西郷隆盛の「征韓論」と同じく、内政の鉾先を外部に向ける政策に起因している。
長らく北海道は中央の政治の行き詰まりを解消するような「フロンティア」として利用されてきた。その「当て馬政策」がもはや成り立たないのだ。北海道が「当て馬」にされてる時代は過ぎて、市民権を得て、広さでは国土の20%を担う北海道として自主自立(自律)する時代が10年ほど前から訪れているのだが、行政のトップは解っていない。
「積雪、寒冷、過疎」ってキーワードで北海道を描くのは間違っていない、だた、それは「一面」である。申し訳ないが、北海道に居住する私の意見としては「都会に住む馬鹿の気が知れない」のである。「貧しくても豊かな生活」ってのが日本文化に有った。言葉で言えば「赤貧洗うが如し」って表現は貧乏、乞食の様子を表したのでは無く、そこに高貴な精神を表した言葉なのだ。
だが、効率至情主義(ってたぶん、多民族国家のアメリカの悲しい唯一の価値観なんだろう)、それを訳も解らずに受けとめて、本当に訳が解らなくなっているのが今の日本の現状だ。だから、何を目指しての活動なのか解らない、国際社会で日本が担うことすら解らない、そんな「地に足が着いていない」活動なのだ。
北海道的な物が前に書いたが信号機の縦型である。
再掲載になるが、最近北海道の信号機は赤・青・黄色が横に並んだものでは無く縦にならんだいわゆる縦型信号機に変わってきている。これは雪が信号機に積もり信号機を覆い尽くすのを妨げるので歓迎すべき方式だ。がしかし、これが北海道で増えているのは「東京が土地が狭くて縦型にせざるを得ない」おこぼれなのだ。北海道発想では無い、積雪故のデザインでも無い、東京の流れが辿り着いただけなのだ。
何時までたっても北海道は東京にはなれない
札幌市の功罪は多々有るが、今でこそ使われない「ミニ東京」を指向していた感は拭えない。支店経済下で本州の企業の論理ばかり聞かされて政策にしてきた。そして、公共事業の格好の狩場になってしまったのは、札幌市の市政の無策意外の何物でも無い。
さすがに北海道知事の堀もキレタのか、自主自立の北海道ってスローガンは札幌市に向けられたものだ。桂なんて「管理係長補佐」が市長をやってるのだから、まるで札幌市の顔が見えてこない。
方針が無いので暖簾に腕押しで意見する気も起きない。
北海道の組長はこの桂とほとんど同じである。テレビで流される「東京」を見習って行政を行っていれば安泰なのだから。地元選出の代議士と組んで、特に何も考えなくても東京でやってることを要求すれば地方財源は賄えたのだから。
しかし、一番気が付いていない層だが、地方自治体の職員は小泉改革内閣で最初に「痛み」を受ける層なのだ。地方自治体の議会も同じである。市町村合併が最大の小泉政権の目玉なのだ。これを「改革」と呼ぶ稚拙さはおいといて、基本的に「何処でもやがて東京」って発想の転換を迫っているのが「小泉改革内閣」なのだ。それに住民が気が付いていても、役場の職員が気が付いていない悲劇の幕が開こうとしている。
「地方自治」を勘違いした逢坂ニセコ町長
ま、悪くは言いたくないのだが、自らを正当化しようとして「都市中心の税配分は許せない」と叫ぶ地方の組長が多い。彼らには「地方自治」は地方=田舎で行われる政策って意識が強いのだろう。ま、顔洗って出直してこいと言いたい。東京都でも大阪府でも「地方自治」は存在する。地方自治は都会には無い訳では無い。地方=田舎=田舎の自治では無いのだ。
北海道新聞に踊らされて「都市優先で、地方自治切り捨ては許せない」って意見は、地方自治は我にあり(田舎に有り)、田舎が地方自治の拠点であり、都市の地方自治は「中央」って呼ぶレトリックである。逢坂君にして、そのような詭弁を弄するのは住民を騙す深慮遠望が感じられて恐い。何故そのようなレトリックを使うかと邪推すると「自己の組織防衛」である。ニセコ町役場って殻の中で何を議論しても外圧かけられたらいっぺんで崩壊すると自覚できないのか、自覚しても目をつむるのが、そこの感覚は僕には解らない。
もう、ニセコ町は「羊蹄市ニセコ区」でしか生きられないのだ。それを認めたくない故にラッパ吹いているだけなのだ。悪い事に、役場に就職し役場しか社会を知らない町長にはその「ニセコ町役場」が無くなるシナリオは恐くて容認出来ないが故に目に映らないのだ。(ま、メ
(ピーィ)ラになっているのだが)これは、札幌市の市長と同じである。地方自治の仕組みである「直接組長選出制度」では組長が役場出身者では駄目なのだ。その制度の精神を勘違いした時から逢坂町長のボタンのかけ違えが始まっているのだ。
北海道に必要な規制緩和は役人には解らない
先の信号機の話しが端的だと思う。何処にも「積雪、過疎、寒冷地」に考慮している市町村役場職員が居ない。本来業務なのだが「地域で最大の事業所」に甘んじてなにもしない。口を突いて出てくる言葉は「民間の範疇」って言葉だ。
地域を背負う民間が無いにも係わらず、役人根性で「民間の範疇」って言っていて良いはずがない。無責任で自己中心で、定年まで役場が持てば良いって地域にとって最悪の人材が最大の事業所である役場に集まっているのでは何も手の打ちようが無い。結局、地域が役場に殺される。それが、数年先に自治体地図が塗り変えられた時に解る。
212市町村の多くが消滅の爆弾を内部に抱えていることに住民は気が付いていない。その責任は情報を伝えていない(と、言うか住民をメ
(ピーィ)ラにしておく)市町村職員の「親方日の丸」精神にある。国鉄が民営化されて「JR」になり、電電公社が民営かされて「NTT」になりそして最後はPFIによる「役場不要論」になるのだ。解らないってのは幸せだ、定年まで役場職員で居るって前提の「長期計画」なんて、民間の感覚からすると滑稽なのだ。
ニセコ町のホームページには長期計画の項に「平成22年度人口4500人」の前提がある。これに苦笑をおぼえるが、真面目らしいので、背筋が寒くなる。こんな事が計画の基礎になっていて、それで住民は幸せなのだろうか。諦めてるのかな。(一部に「ドーコン」の作文説もあるが、作文に町費を使っている責任は町にある)
このような現象を「地方自治と言う名の地域の役場支配」と僕は言いたい、その意見に真摯になれるかどうかがニセコ町の課題だ。