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マイナス効果しか無い「民主党」
特に「大橋巨泉」個人をどうこう言う批判よりも、「民主党は何を考えているのか」って批判のほうが目につく。これには方程式があって、1)個人を批判した場合の報復を恐れる。2)故に報復の無い政党にもの申すのパターンである。大橋巨泉を担ぎだした時に予想されていなければならない。そして説明責任を果たさなければならない。しかし、大橋巨泉のインターネットでの立候補宣言同時中継の時ですら、その用意がなされてない。菅直人の説明は「大橋さんは一貫して自民党批判だったから」だったが、本当にそう思っているのなら、菅直人は馬鹿だ。大橋巨泉は「一貫して体制批判」なのだ。民主党が政権を奪取したら、民主党を批判する。 そうして生きてきた大橋巨泉を読めない民主党にアキレル。もっとも、民主党がイデオロギー至上主義の人間を切れないのも結局、「人材を見る目」が無いからだろう。仲良し倶楽部なのだ、仲良しに波風立てないのが徳とされてるのだ。だから「議論を進めよう」と最後は言うが、一番真剣に議論していないのは民主党内部なのだ。 言論の自由で良く引用される言葉だが「僕は君の意見には反対だ。だが、君が意見を述べることを阻止しようする勢力とは僕は命を賭けて戦う」ってのがあるが、これは日本人の好きな「上の句取り」である。良く誤用に例示される「情けは人の為成らず」だが、これも「上の句取り」である。この狂歌は下の句「回り回って全て我が為」で完成している。この下の句を知れば誤用は無いのだが、「上の句取り」故の誤用誘引に誰も配慮しない。 話しは逸れるが、「這えば立て、立てば歩けの親心」も同じである。この狂歌の下の句は「己に積もる歳を忘れて」である。だから、褒め言葉では無い。でも、子供って可愛いのよねぇ。だって、這えば立て..」なんて会話がまかり通る。 さて、先の「僕は君の..」の下の句だが「だから、君も僕の意見を阻止するものと命を賭けて戦ってもらいたい」である。そこに、意見を戦わす民主主義の根源があるのだ。 賛否両方の意見に世論(人々)は寛容であるべきだ、言いぱなしでは無く、発言に責任をもつべきだ。単純な話しである。 例えば、前言撤回が得意な田中真紀子であるが、実は「意見を述べ、それを阻止する」てのを一人で繰り返す二重人格なのだ。それが、やがて民主主義の議論の制度で破綻をきたすのは明白だろう。 |
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