似ている「近衛文麿」と「小泉純一郎」
国民の圧倒的支持とは何だろう
年輩の人には「近衛内閣は沢山あった」と言われるので、第二次近衛文麿内閣に絞って話しを進める。その後の第三次近衛文麿内閣を経て日本が「外交」を誤って戦争に至ったのである。世界の情勢をアドルフ・ヒットラーの躍進と読み違えた外交を行っていた時代の話しだ。
近衛文麿は実は第一次から国民の圧倒的支持を得ていた。当時の軍部台頭による内閣を政治コントロールにしてくれる「期待」が大きかったのだろう。そのような個別判断では無くて、日本が向かう方向を明確にするって使命を近衛文麿が担っていると思っての支持あろう。
でも、「期待」は裏切られる。責任能力を果たしてないのだ。当時の第二次近衛文麿内閣の外務大臣は松岡洋右(ひろむ)。こいつの外交感は「ヨーロッパはヒットラー勝利、フランスに加えてイギリスも敗退、この時にアジアの利権は日本が継承」ってあたりにある。残りはアメリカ、これは日本が叩けば良いてなシナリオ。
つまり「世間知らず」なのだ、加えて「自分の成果自画自賛姿勢」がある。
これって、田中真紀子に似てないかぁ!
奇人「松岡洋右」に似たる「田中真紀子」
似ていると言うのはコジツケに近いのだけれど、世界を俯瞰した状況判断とかリーダーシップとかでは無い。言動が不安定な事が一番似ていると思われる。大橋巨泉にも言えるのだけれど体制批判の瓦版(かわらばん)記者は日常、批判するネタ探しにしか目が行かなく。政権側、つまり無から有をなす体質に無い。つまり、批判のためにあら捜しばかりしているから、自ら企画したりする能力が退化してしまっている。また、批判は口一つあれば出来るのだが、実行には組織を構えてリーダーとして事案を成就する能力が必要だ。この能力も退化してしまう。
松岡洋右も田中真紀子も「首相の意向に自らの思い込みを優先して逆らう」って点と「外務大臣である」って点が似ている。そして、松岡洋右の頃に日本の政治は何処に向かって流れて行ったか。
一番の日本の不幸は近衛文麿の当事者意識無き政権放棄、政策放棄であろう。時代の閉塞感はリーダを選ぶときに誰であれ閉塞感を打開してくれると期待を託すことが出来る人を選ぶのだ。ヒトラーが民衆による選挙で選ばれた事実がそれを裏付けしているだろう。当時のドイツ経済は誰でも良いから復興してくれる人に期待せざるを得ない状況だった。
今の小泉内閣も同じである。「支持率」なんかでは無くて「期待率」なのだ。そして、基盤が自民党なのだから、おのずと抵抗勢力の攻撃にあい、これをまとめきれなくて解散する。ここのシナリオも松岡洋右を切れなくて内閣総辞職に至った第二次近衛内閣の事例通りになるのか注目である。その前に、政界再編成によって自民党が政権政党から再度滑り落ちると僕は読んでいるのだが。
外交下手が政権の座から滑り落ちる
平和を継続するってのは非常に微妙なバランス操作が必要で、放っておけば平和維持の一本橋から転げ落ちてしまう。小泉首相の「靖国神社公式参拝」なんかは典型で、自民党的事象を顕在化している。厚生大臣を務めた小泉純一郎にとって、宿敵である橋本龍太郎の厚生関連団体を我が手にするための禊ぎとして「靖国神社公式参拝」なのはミエミエである(マスコミは見えてないのか、まるでこの点に触れていないが。と思ったら、8月5日の朝日新聞朝刊で触れていた)。
8月15日、当日は政府主催の戦没者慰霊祭が行われる。政府主催であるから、その代表者は内閣総理大臣である。その式典で主催者として式辞を読む小泉純一郎には十分「戦没者慰霊」の意志表示の場はある。つまり、「戦没者慰霊」の志しは小泉純一郎の心情であるが、靖国神社公式参拝でしか達成出来ないものでは無い。
多くの「靖国神社公式参拝」への疑義に対して小泉純一郎は一貫して「戦没者慰霊の精神が批判されるのはおかしい」と述べてる。これに対して野党勢力は(一部公明党を含む)A級戦犯合祀で論戦を挑む。がしかし、戦没者への慰霊は行政府としての政府が式典を行っているのだから、それに小泉首相も列席しているのだから、あえて、「靖国神社で他の式典では出来ない何かが有るのか」ってスタンスで問いただしてもらいたい。それは、首相選挙で遺族会の支持を得るための矮小化された「公約」なのだ。その「公約」に一途なのは小泉純一郎らしいが、遺族会に数を頼んだ旧体制と同じ精神なのだ。それが、「靖国公式参拝」にこだわる唯一の理由なのだから底の浅さが知れる。
また、韓国も中国も内政干渉である。国内の不満を海外に向けて不調和音を統合するのは政治の一般的手法だ。そのネタが教科書問題だったり靖国公式参拝であったりする。韓国も中国もこの広い意味での内政統一のために利用しているのだ。
さっさと辞めろ、小泉純一郎
心情的議論は議論にならない。「誰がどのように思うとも、私はこう思う」ってのは議論拒否であり、自我の表明だけであり、結局「わがまま」の表明だけなのだ。
小泉純一郎が遺族会への「公約」では無くて主義を通す姿勢ならば、野党のA級戦犯問題に対して「A級戦犯は戦勝国が決めたもので、敗戦国の日本人は納得していない」とか言えるはずだ。第一に遺族会への「公約」だから、第二に「日米機軸主義」だからそれは言えない。言えないから心情論にすりかえる。ここに小泉純一郎のソロバン勘定が見える。
これが、近衛文麿に似ていてしかたがない。今、再放送だが田村正和の「総理と呼ばないで」ってパロディドラマが放映されている。これは森首相をパロったものらしいが、どうも小泉総理も同じなようだ。反対勢力(抵抗勢力)に対して政権を投げ出すのなら(その公算が高いが)近衛文麿と同じである。
ただ、近衛文麿の時代と違うのは、大政翼賛会の時代では無くて野党が健全に存在するってこと。小泉内閣を支えるのは自由民主党では無くても良いって選択肢がある。「改革無くして生長無し」と言いながら、靖国公式参拝で遺族会の票を集めたって小泉純一郎の守旧的体質が起こした「靖国公式参拝」事案だが、これは小泉純一郎のリトマス試験紙である。あまりにも些末な事案に固執するのは「遺族会への公約」意外のなにものも無いだろう。
そんな事をやってる場合では無い。自由民主党では改革は出来ないと早く割り切って、支持基盤を自由民主党から切り替えるための衆議院解散総選挙、もしくは、自民党総裁の自民党離脱って前例の無いパフォーマンスをやってみることだ。加藤紘一がタイミングを計りながら野党と組んで立てば、小泉なんて胡麻の灰になるのだから。
国民は「改革を叫ぶリーダー」に「期待」している。だから、今一番政権に近い人物は加藤紘一か小沢一郎なのだ。自民党が延命を計るなら加藤紘一、野党が政権奪取するなら小沢一郎。この2名が軸になる。
「なにを非現実的な話しを」と感じた人は村山富市が首相になる程、政界は「一瞬先は闇」だと思い起こしてもらいたい。