姑息な靖国神社の事前参拝

13日に靖国神社参拝でお茶を濁す
 正面からの議論を避けた所が一番いただけない。「戦没者慰霊」だけの論理で靖国神社に終戦記念日に参拝することは出来ない。その趣旨を全うするには他に沢山の選択肢があるからだ。戦没者慰霊祭でも十分だし、終戦記念日に首相談話を発表しても良い。
 靖国神社を首相が参拝してはいけないって論理に真正面から取り組み、議論する姿勢こそが民主主義なのではないか。それを避け、中韓に外交(経済)圧力をかけられ、これに屈したように見えないための13日の事前参拝。まったく自分勝手な変人なんだ、小泉純一郎氏は。
僕が総理大臣なら以下のように応戦するな。
1)土井たか子の「A級戦犯合祀神社」提起
 これは、「死んだらみんな仏さん」では出来の悪い漫才のツッコミでしか無い。これには「戦勝国の裁判結果であって、昭和28年から続々と戦犯恩赦が行われた歴史がある。絞首刑で死んだ人には恩赦が無いが、これも合祀と言う方法で恩赦に近い措置が行われている。そもそも、A級戦犯を合祀するかしないかは宗教法人靖国神社の判断範疇で政治が口を差し挟む事柄では無い。私は、少数の人が合祀されている事を恐れて、特攻隊のように不本意ながら戦争で亡くなった多くの若者に今の日本の不戦の誓いを総理大臣として報告に行くことを止めるつもりは無い」
とか言えば良い。
2)公明党の憲法違反の疑い提起
 「公明党さんは憲法の「政教分離」にお詳しいのは重々承知してますが、靖国神社への参拝は、我々がお葬式で数珠を持つのと同じ祭事行為でしょう。お葬式だってそれぞれ宗派が有るでしょう。総理大臣がどのような数珠を持つかによって「政教分離」が犯されますか。全然違う。私は靖国神社を賛美しに参拝に行くのでは無い。死者を弔いに行くのです。それが憲法違反なら総理大臣には弔う権利が無いことになる。それこそ、私の人権の侵害だ。」
3)鳩山由紀夫の「アジアに配慮を」
 「先の戦争は侵略であったとの政府見解を過去に村山首相が名言している。私も現在の総理大臣として厳粛に受け止めている。その反省に立って、二度と繰り返さない事を靖国神社で誓ってくる。また、同じ日に戦没者慰霊祭を執り行うが、戦没者を戦死した兵士にみでなく、戦争犠牲者総てのかたへの拡大して弔いと考えている。兵士が加害者で住民が被害者と単純に割り切れるものでは無い。先の戦争で亡くなった方総ての慰霊を内閣総理大臣として行いたいのだ。その総ての方に不戦をお誓い申し上げるつもりだ。」
 つまり、国民は小泉純一郎のリーダーシップに期待しているのだ。改革を叫ぶのなら抵抗勢力に互して議論をし、論破出来なければ成就しないのだ。その力が有るのか無いのか、小泉純一郎は「口先だけの変人」では無いと国民に解りやすく示せなくてはいけない。今のブームは秋には下火なのだから、真に行動力を伴った日本のリーダーたる姿勢が無く、何処か逃げ腰な態度ではブームとともに去る「一発屋総理」になるのは自明なのだ。

「終戦記念日」って用語を論議
 僕はこの言葉が気に入らない。小学校の頃からずうっと違和感がある。「記念日」とは何か晴れやかな出来事を記念するイメージがある。日本人は終戦を晴れやかな事柄と思う感覚が何処かにあるのだろうか。
 「マッカーサーさん有り難う」とまで記事にした朝日新聞もどうかと思うが、ポツダム宣言を受諾することが国民が「記念日」として記憶に留める事柄なのだろうか。お隣の韓国では同じ日が「独立記念日」だ。日本人も心情的に軍部支配が終演した記念日」と考えているのだろうか。
 子供の頃の記憶と言うのは根が深いもので、多くの記念日(ほとんどが国民の祝祭日で学校が休みなのだが)には玄関に日章旗を飾り、晴れやかなものなのだが、「終戦記念日」だけは夏の暑い盛りなのに喪服と線香の煙に包まれる異常な「記念日」なのだった。
 「敗戦慰霊日」とか「終戦の日」とか、名称を改めるべきだろう。まさか、進駐軍に気を遣って「終戦記念日」との名称にしたのでもあるまい(いや、その可能性は高いかもしれない。VJ記念日をそのまま置き換えた風でもある)。  「終戦記念日」この言葉には戦争の反省の意味がまるで含まれていない不思議な言葉だ。これで、55年間うやむやにしてきたのだろう。これからも、このうやむや方針で行くのだろうか。

野党の「アジアに配慮」もイタダケナイ
 文句言ってきたのは中国と韓国である。NHKは正確に「中韓の抗議」と称している。ところが、野党の民主党、社民党、共産党は「アジア」に拡大解釈している。歴史観以前の地理の問題なのだが、中近東の隣からアジアは始まる。トルコまで戦地を広げた訳では無い。また、地元の人々と戦ったのは中国だけである。韓国は併合して公式には敵対国では無い。また、中国にも公式には宣戦布告していない。ただし、これはアメリカの激怒をかわないための姑息な戦術ではあるのだが。
 公式参拝が世界を敵に回すよなレトリックは避けた方が良い。結局政治を見えにくくしているのは自分たちの説明責任が稚拙だからであって、小泉のみでなく、自らの問題として説明責任とは何かを考えて貰いたい。
 自由党の談話が面白い。もちろん、自由党は公式参拝賛成であるから明確に切ったのだろう。「言ったことが守れなくて、あの人、本当に改革できるの」。実に明解である。物事の重要度から言えば、靖国公式参拝よりも、「本当に改革やれるのか」が大きい課題である。それの試金石であったのだが、「約束を守らない変人」の体をさらけ出してしまったのだ。

議論を避けていては国民に解りにくい
 参議院選挙が有ったこもとあり、党首討論の機会が増えている。そもそもクエスチョンタイムが少し定着した効果が大きい。そこで交わされる議論は幼稚園児の議論と言ったら幼稚園児に失礼なくらい無意味な時間つぶしである。
 この責任は野党側に有る。小泉首相が論点をすり換え、逃げていくのを囲い込むことが出来ない。農家の庭でやみくもに鶏を追ってるように見える。囲い込めないのだ。やすやすと相手を取り逃がしてしまう。「時間が無いので次の問題に行きますが」って発言はまったく見苦しい。時間が無いのは解ってるのだから、1本に絞って討論すべきであろう。小泉から「ここは党首討論の場なのだから、細かい話は予算委員会で専門の先生方に任せた方が効率がよい」なんて言われて引き下がってしまう。「あなた個人がどのような姿勢で臨むのか聞いているのだ」と一言あれば、状況はずいぶん違ったものになるだろうに。
 「議論をすり替えられちゃいましたぁ」なんてメルマガで送ってくるなよなぁ。反省だけなら猿でも出来るって。
 国民に解りやすくするのが政治家の説明責任だ。「前向きに検討します」なんて答弁を引き出しているうちは国会なんかいらない。愚論のための議論はいらない。
解りやすく、意見を戦わすこと。それが出来ない小泉純一郎、そして野党、与党の面々。この国は変わっちゃいないぞ。
 最後に言って置くが、僕はどちらかと言うと、公式参拝すべきであると考える。しかも、国民が納得する公式参拝の論理をもってである。抜き打ちで行けば良いってものでは無い。
 国立墓園を検討するそうだが、それって、新たな宗教じゃないのか。それこそ、政府のやることじゃない。どこか過去を清算せずにペタペタ膏薬を貼る体質から抜け出せないようだ。

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2001.08.13 Mint