テロと呼ばれる新しい戦争
あまりにも衝撃的だった映像
台風が北海道に接近しているので台風予報を見ようと2001年9月11日、まさに当日(日本時間)22時にNHKテレビにチャンネルを合わせた。「ニューヨークの高層ビルに旅客機が衝突した模様」ってのが映し出される。この時間帯のニュースキャスターは僕も大学の講義がある時に時間が空いて見ていた「スタジオパーク」のアナウンサーではないか。彼の手に余る事件かなぁって感覚が一瞬頭をよぎった。
画像が中継された時に、マイクロソフト・フライト・シミュレーターのニューヨーク空港を南に離陸して左に世界貿易センタービルが見える風景を思い出してしまう。セスナだと離陸後脚を引き上げて左旋回すると高度か十分取れないので、この建物の間をすり抜けることになる。これはVer3の頃からの「おやくそく」のシナリーだった。結構前に離陸した飛行機を追って飛んだ(シミュレーターだが)事があるコースだ。
おやおや世界貿易センター(WTC)が煙をはいている。そう言えば一方の高層ビル(僕は「摩天楼」って表現が好きなのだが)としてエンパイヤステートビルに米軍機が衝突した事が昔有ったなぁと想いながら、たぶんNHKもその頃の映像をライブラリーから捜しているのだろうと思って見ていた。
インタネやってる娘に「あ、これは取材の飛行機では無いぞ」と言った瞬間にNHKの画像の右からWTCに向かった航空機がすり抜けるのでは無く建物の左側に火炎を生じさせた。まさにリアルタイムに状況を目にしたのだ。特に北海道では台風の雨による被害が始まり、国道の数ヶ所が通行止めになり、当日の18時からは対策本部が設けられ待機していた職員の多くは僕と同じようにリアルタイムで放送を見ていた、と、翌日、道路管理の人々から聞いた。
「これって、テロかぁ」。まず最初に映像を見て発した言葉である。間違って高層ビルに激突することは周辺に空港が多いニューヨークで発生するかもしれない。でも、これだけの好天の朝に2機までも、それぞれ別な1棟とぶつかるなんて意図的なものとしか思えなかった。
燃えるWTCを見ても「ひどいテロだなぁ」くらいの感覚しか無かった。ところが、そろそろ新しい事実は出てこないから明日の朝のニュースで十分と思い寝ようかなと思った頃に建物が崩壊する。この映像こそが信じられなかった。特定の人間を抹殺するのが旧来のテロだった。しかし、特定の象徴的建物を狙って、しかも全壊に近い成果を上げるってのは、よほど周到な計画が事前に有ったのだろう。それ以前に人が亡くなっているのだって感覚が画像から得れない自分に驚いた。これくらいの事って前にも有ったよなぁと思った瞬間、思いだしたのがトムクランシーの「日米開戦」だった。
21世紀の戦争かなぁと思うが
「自国の利益」ってキーワードで戦争を行った時代は過ぎたのかもしれない。いや、それは、それとして存在し続けるのだろう。また、戦争から国民を守る方法も変わってきた。国が担う「国民の安全」のための対象が他国からの攻撃だけでは無く、攻撃的集団も範疇に入れなければならないって時代に入ったのだ。
ここが、テロの恐さだろう。彼らは100円ショップであるダイソーでも売っているカッターナイフで人を殺害し、航空燃料満載の航空機(うーん、時価はどれくらいかなぁ。日本円で50億円くらいかな)を手にいれた。これって、ブッシュ大統領がいくら戦争へのプロバガンダを押し進めようと、客観的な事実なのだ。ビンラディン氏が首謀者である証拠よりも明確になってる事実なのだ。何と言おうと「ダイソーの100円ショップで購入できる物」で、50億円の(武器? 破壊装置?)をコントロールできるのが現代社会なのだって事実を認識しなくてはいけない。それに備えていなくてはならない。
車であっても殺傷能力は有る。航空機程の運動エネルギーは無いが、それでも10トントラックで対抗車線に突っ込めば数十人の殺傷は可能である。それが、殺傷能力を持つのは運転している人間が自らの命すら武器の一部として消耗して良いと考えた時だろう。
そんな場面は考えにくい。でも、これが「殺傷武器」として使われたのだ、ダイソーの100円のカッターナイフレベルの凶器で。
トム・クランシーは著書「日米開戦」の中で国と国の戦争とは別に、一人の気違いによって大統領を殺害する事も可能だと示している。また、日本が何故太平洋戦争に至ったかの経緯を見ると、軍部による政治家へのテロを匂わすことにより、政治家個人の生命保身のために政治が歪められた事実がある。
テロを根絶するのは不可能である。しかし、テロを防ぐのは100%では無いが可能である。そもそも、大統領にシークレットサービスを付けるのは「防ぐ」ための備えではないか。そこはテロと平和を守りたい者との知恵比べである。アメリカではどれほどハイジャック防止に努力してきたのか。その責任者自らが、自らの非に言及せず、ひたすら「21世紀の戦争」と叫ぶのはいかがなものかと思う。
万引きされたセブンイレブンの店長が、報復と言ってローソンで万引きしているような矛盾を感じないアメリカ社会が少し恐い。
自らの命を手段にして攻撃してくる行為は予測しがたい。が、太平洋戦争の時に日本の特攻は米軍への物的被害よりも戦士の精神的被害として効果が高かったのだ。自らの死をかけて向かって来る者ほど恐いものは無い。「明日のジョー」で倒されても倒されても向かってくる矢吹ジョーにホセメンドーサが感じたように。
テロって定義も難しくなってる
テロ対策は軍隊では無くて警察が注目されなくてはいけない。国民の生命財産を守るのは警察の仕事なのだ。軍隊は外国からの攻撃を抑止するのが目的なのだ。「北海道の11日戦争」に描かれてるが、稚内に上陸したソ連兵を迎撃しようと自衛隊が上陸中のソ連艦船を砲撃しようとすると、稚内市民が「もっと奥地で迎撃してくれ。ここは荒らさないでくれ」と自衛隊に懇願する場面がある。国民の生命と財産を守るのは警察の仕事である。いざ戦争が始まったら、軍隊は国民の生命、財産を犠牲にしてでも国土(国境線)を守るのだから。
実は国内治安は警察ってコンセンサスが有るようだが、基本的に日本は警察の国際化がメチャクチャ遅れてると思う。お上が国民を統治する手先が警察だって風潮が改革されていない。「警察=岡っ引き」なのだ、ドラマでも古畑任三郎=銭方平治」なのだ。国家の平和維持って雰囲気が警察から出てこない。一部のキャリアが支配する警察には国民の生命と財産を守る使命感が欠如している。
しかし、実はテロ対策は警察の仕事なのだ。テロ抑止も警察の仕事なのだ。自衛隊は戦争の武器である。軍備は対外的な抑止力となるが、国内では何の機能も果たさない、だから、自衛隊の災害出動が要請されたりする。雪祭での雪像製作なんかも本来業務では無い。本来業では無いが、自衛隊が国民に見える形を模索するとここらあたりしか無いのだ。あくまで自衛隊は対外的機能なのだってコンセンサスもこの国では出来上がっていない。
例示されるのが旧オウム真理教の「地下鉄サリン事件」である。これはテロなのだろうか。日本には明確なテロ防止法が無いので破壊防止法の範疇になる。オウムに破防法を適用するかどうかについてはエラク国会で揉めた経緯がある。破防法が適用されなかった背景には「オウムは気違い集団」って意識が有ったからだろう。気違いは何をするか解らない、そんなものを法律で規制しても意味がない。そんな感情がどこかに有ったのだと思う。
でも、あの時に「テロ防止法」みたいな検討をすべきであった。日本の治安の高さは警察の努力のたまものでは無い。日本が世界の常識からほど遠い鎖国状態にあるからなのだ。警察も「岡っ引き」で良い時代はとうに過ぎたのだ、もっと国際感覚を持って治安を考えて欲しい。それを、「警察予備隊」に委せては責任のがれなのだ。
テロの武器を取り上げることは出来ない
言い方を変えれば何でも武器になるのだ。だから、使用を防がなくてはいけない。航空機で言えば操縦席への扉は頑丈で開ける事が出来ないようにする。なんてのでは駄目で、管制官からの着陸許可が電子的に受信されなければ1000フィート以下に高度が降りない装置を開発するとかしなければ駄目だ。または、空港の交通管制区域以外では高度が下げられないとか。これが装備されている航空機には乗客が安心して登場できるので航空会社にとっても恩恵がある。
豊臣秀吉の刀狩のようなことをやっても、所詮、百姓一揆が起こるのは、クワやスキやカマで十分武装できるからだ。テロを根絶する事は出来ないのと同様に、テロが使う武器も隔離することは出来ないのだ。
そこでテロ防止にい一番有効なのが情報である。個人テロは人権との兼ね合いで難しいが、集団テロは必ず動きを察知することが出来る。動向を常に把握することが出来る。アメリカは好景気に浮かれ、危機管理がおろそかになったのだ。これはクリントンにも責任がある。下半身問題を起こす(ばれる)男に危機管理能力は無い。その意識が無い。だから、誰かが叫ばなければいけないのだが、沖縄サミットではまるで他人事のように「テロに警戒しろ」と言っただけで、自らの問題として受けとめていなかったのがアメリカなのだ。
じゃぁ日本はと言うと、それは次に書く事にしよう。