またまた文部省の教育見直し運動かいな

今の教育改革は現場を知らない
 小手先の教育改革がまた文部大臣の諮問機関を動かして行われている。いつものことで結果さっぱり何も改善されずに文部省がダラダラと続いている。この最、文部省解体を諮問したらどうなんだろうか。
 小学校から大学まで場面に応じた柔軟な教育制度を検討するならいざしらず、一連の教育を縦割り部局構造の中で検討するからまるで意味のない改革になってしまう。これを55年も続けているのに国民は何も言わない。国会議員は不作為の義務違反をおかしている。
 せめて現場を知って何が問題かを把握してもらいたい。高校で九九を教えている、大学で基本的計算が出来ない学生に補講をしている。これらは総てその前段での教育の失敗を後段に押しつけている結果だ。とりもなおさず中学3年間と高校3年間が文部省の縦割り部局によりスムースに繋がらない証左だ。

「ゆとり教育」は現場放棄
 今の子供たちは教育に価値を感じていない。戦後の教育の柱が儒教の流れで教育は貧困を救う。高度な教育を受ければ金になる。豊かな生活は教育から。
こんなスローガンで成り立ったものが今は欲しい物は何でも手に入る他人と同じであれば良い中流化現象の中で、子供たちは教育に価値や意味を失っている。ここに現在の教育の最大の課題がある。ここを論議し改革しなければ教育改革では無いのだ。
 「30年でノーベル賞受賞者を10人出す計画」ってのは何なのだ。こんなものは計画でも何でも無い。競って得るオリンピックのメダルと学術を同等にしか見られない文部省役人の貧弱さが表れている。彼らは体育とスポーツの違いも解らないだろう。
 「ゆとりの教育」も同じ、知りたいって知識欲を向上させて効率よく知識欲を満足させる教育が国民が望んでいる教育なのだ。人間が他の生物と違うのは、人間には好奇心が有る。これにより知識が世代を渡りながら発展する。これが中世から科学が発展してきた原動力である。そして、科学はこれからも発展していく。その時代に「貧困からの脱出」みたいな教育理念では通用しない。国民の知的欲求を満たす教育。これこそが求められてるのだ。

トフラーの「パワーシフト」
 文部省の役人や学校の先生に是非とも読んでもらいたいと思い、最近また読み直している。トフラーの未来予測3部作の中でも一番読みやすいのでお勧めである。特に随所に日本を例に引いているので身近である。この中で「パワー」=権力について考察している。日本の天皇家には三種の神器が有って、剣・まが玉・鏡である。剣が何のパワーを表し、まが玉が何のパワーを表し、そして鏡が何のパワーを表しているのかを考察する。簡単に言うと武力、財力、知力がパワーであり、20世紀の煙突(工場)による経済パワー全盛から、21世紀初頭は知力パワー全盛の時代になると予言している。
 この時代に生きる子供たちに向けて「知力パワーの時代に生きていく方法」を教えなくては教育では無い。教育は間違いを繰り返しながらそれでもあるべき姿に向かって日々改革していくものだ。今の延長線上に教育は描けない。つねに有るべき姿を取り巻きながら右に左に揺れてるのだ。何故なら、教育は相手のある双方向な行為だから教える側と教わる側の綱引きで常に動いているのだ。
 知力パワーの時代に生きるためには、情報の取り扱い、収集、発信方法に長けていなければならない。パソコンが使える使えないでは無くて、情報を扱える能力を身につけなければならない。そのためには、今のような四角い学校で四角い教室で四角い机に向かい、アメリカ横断ウルトラクイズのような難問を解く能力ばかり磨いても何の役にもたたない事が解るだろう。
 社会との接点が最重要なのだ。まさに「知力」ある者が次世代を教育するのだ。四角い教科書の朗読では何も得られない。

「さよなら小津先生」と「三年B組金ぱち先生」
 秋のドラマは昔のトレンディドラマを泥臭くしたようなものばかりだが、この2ドラマを比較しながら見ていると教育の在り方の参考になる。
「金ぱち」は小宮山さんの脚本で、相変わらず「日常有りもしないこと」を舞台に「その時どのように対応するかを示唆する」危機管理然とした出来だ。方や「小津先生」は「日常何処にでも有りそうな事を一つ一つ自ら考えて解決していく」ってシナリオになっている。こちらは君塚良一氏の脚本。
 学校内部のゴタゴタで済まないのが今の教育問題。また、学校教育の二面性は「学力を付けること」と「子供たちを大人に育てること」。今の教育はこの2極化が激しくて特に「学力偏重」高校と、そこから落ちこぼれた学校の格差が激しい。校風ってのもいいかげんになってる。学力偏重主義の中でバランスを欠いた「育てる」教育は生徒にとって不幸だが、学力偏重でも無い学校で学力偏重に戦う教師はもっと不幸だ。
 「金ぱち」には学力が出てこない。「小津先生」にも出てこない。中学校と高校の違いは有るが、「金ぱち」のような中学校は実際にはほとんど無い。高校へ追い出すのが中学校の最大の使命になっているのだから。
逆に、「小津先生」のような高校は有る。私学の個性は余市北星学園のような学校を生み出している。しかし、高校と言っても「育てる」事に重点が置かれた高校だ。
実は、ここが大切なのだ。現在の教育の矛盾は学力のスケールで義務教育を行い、高校になってはじめて学校を分けて「学力高校」、「育てる高校」、「どちらでも無い高校」になるのだ。中学3年生と言えば15歳。江戸時代なら元服で一人前。にも関わらず半人前のまま中学校を卒業してしまう高校生がいかに多いことか。
 義務教育は「育てる教育」、高校からは「学力別学びの学校」そして大学で「研究の学問」にならなければ。その体系すら文部省は示し、実践出来ていないでは無いか。
 無駄な諮問機関活動をやめて(どうせ、官僚の作文とそれを承認する老人の構造なのだから)、機能別学校教育を縦割りを脱して体系付けて計画を策定してはどうか。

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2001.11.27 Mint