経済>「資本主義」の一人歩き

「資本主義」なんて用語何故使う
 国の政治システムとして「共産主義」、「社会主義」はイデオロギーとして明確に定義される。それ以外の国の政治システムは「自由主義」と呼ばれるのが正しいだろう。この「自由主義」はイデオロギーに属さない政治システムとしてイデオロギーでは無いものの総称である。
多くの配慮有る意見では「資本主義社会」とか「資本主義体制」とか4文字熟語では使わないが、それでも「日本は資本主義だ」みたいな暴言が目に付く。政治システムと経済システムとの違いがであり、「資本主義」は「資本本位主義」と言い換えた方がその本質を表してる。
「資本」てのは経済制度の中で使われるべきで、政治制度で使うのは違和感がある。政治的イデオロギーで分類するなら日本は大きな政府を目指す社会主義と評して良いのではと思う。
 国家の経済方式は政治が統制するものでは無いことを実証したのがソ連崩壊の意味だろう。政治と経済は別物であるのが望ましい、これを我々が検知したのだ。
共産主義が提唱する国家による財政統制(計画経済)は国民の活力を奪うとともに新しい発展の芽を阻害してしまう。自由主義経済国家から溢れる情報に国民は憧れる。
実は工業社会であれば国家の統制によって物の生産をコントロールする事によるメリットは大きい。正しく運営されれば安定生産・安定供給が可能になる。余剰生産による値崩れ、生産縮小による高騰が防止され社会のロスが軽減される。
しかし、これは社会が工業製品にのみ依存していた時代のことである。現在の商品は無形の「情報」が多い、CDやMDに代表される音楽、DVD、ビデオの映像、放送番組、全部生産量と消費量のバランスを考えなくても良い製品だ。媒体は工業製品だが、そこに収められてる「情報」は工業製品とは比べ物にならない需要と供給のバランスを保っている。しかも、放送等の電波媒体では一つ生産すれば無限大の消費が可能になる。
 物は誰かが所有すると他の誰も所有できない1個独占の商品であったが、「情報」は複製を容易に作れるので独占の商品にはならない。このため、統制経済のメリットも情報化社会では意味を持たなくなる。共産主義経済が文字道理「産」の構造が変わったために経済システムとして機能しなくなったのだ。
 効率の良い工業生産は無駄を排除するが、情報化社会では過剰生産の無駄は微々たるもので、しかも受給のスピードは日々調整される。生産計画を立てて一年かけて達成するような生産では世の中のテンポについていけない。

資本本位制は一握りの金持ちのため
 かと言って、資本主義社会が今後の本流かと言うと、必ずしもそう言えない面がある。その前に富の蓄積と経済の問題を考えておきたい。経済は富では無い。一部の人々に富が集中し、蓄積すると経済は停滞する。バブルの時に何故景気が良くて、そのツケを払う段になって不景気になるのか。それは金が回らない状況が不景気であって、富が失われても不景気にはならい無いからだ。
 「バブルの時に儲けた金は何処に行った」なんて素人のグチを耳にするが、実はバブルの時の儲けなんか無いのだ。誰も儲からなかった。ただ、金の流通量が現在より多かったのだ。この場合の金は量では無い、流通量だ。
 落語の話に二人で酒屋をやろうとまず一升瓶一本を900円で仕入れる。これを売って利益を出してしだいに店を大きくしようとする。ところが、寒いのでいっぱいやりたくて、八つぁんが熊さんから1杯100円で酒を買う。八つぁんが飲んでいるので、今度は熊さんが手元の100円で1杯八つぁんから買う。今度は八つぁんが熊さんからと100円がいったり来たりする。結局売上げは1000円(1升)、儲けは100円。儲けた100円は最初に八つぁんが出したものだから、結局は仕入れの900円まるまる赤字。
 ところが、熊さんが我慢して「俺は飲まない」と言ったら。八つぁんは最初の1杯しか飲めない。収支は100円の売上げと810円の在庫になる。
どちらが景気がよいと言えるだろうか。景気は富の蓄積では無く、貨幣の流通なのだ。だから、計算上は客が2人にも関わらず売上は1000円となる。

金が金を生むシステムが資本本位制
 この話をもう少し拡張して、最初の900円の仕入れは大家さんが出してくれる。その条件は950円にして返してくれれば良い。今度は熊さんも八つぁんも売りに精だして1000円の売上げがあった。大家さんに950円戻して50円の儲け。しかし、明日からの商売用に仕入れしなければならない。また大家さんから借りる。せっせと18日間働いて、なんとか累積利益900円になって大家さんと手が切れる。この時、大家さんの手元には1900円残る。
 これが旧来の共産主義社会から攻撃された資本(本位)主義の矛盾。働かない大家さんが働いた者と同様の富を得ている。この現象だけ見ていると、やはり大家さんは悪い。一生懸命働いた二人には1800円の富が得られても良いではないか。となってしまう。一見正論なので熊さんと八つぁんは1800円得たとしよう。ところが、大家さんの家での博打で負けて1800円まるまる大家さんの手元に入ってしまう。
 なにやらイソップ童話のようだが、この資本本位制も工業化社会の産物であり、現在の情報中心の生産経済には合わなくなっている。一定の生産には一定の設備投資が必要な産業構造では無いのだ。吉田拓郎がギター1本でレコード会社まで作ってしまう。そんな産業構造に変わっているのだ。つまり、生産には設備投資を必要とするがその金額割合は旧来に比べて格段に少なくなる。利益率の大きな商品が出てくるのだ。
 この段階で資本本位主義社会は金が金を生む方法に走らざるを得なかった。それが今の金融取引であり、証券取引である。そして、それは八と熊の100円のドッジボールなのだ。そこからは何も生まれてこないのだから。持たない者は参加出来ないのだから。
 今のアメリカの経済が実は八熊酒屋であること誰でも知っている。そして、それを世界のスタンダードにしようとしてアメリカは嫌われてる。嫌われても経済力が有るうちは疎んじられることも無いだろう。しかし、実体経済と同じく金で金を生む経済を続けていたら、やがてアメリカの地位も日の入りを向かえるだろう。

Back
2001.12.12 Mint