情報化と資料集め
インターネットを使えば新聞の切り抜きなんかいらなくなる。もっとも、そもそも新聞の切り抜きなんか不要なのだ。資料をたくさん集めるのが「情報化」では無い。資料から何を読み取って何にいかすかが問われているのが「情報化」なのだ。そもそも情報と資料は違う資料は情報の「一部分でしか無い」。
インターネット利用に満足して考える力の弱まった人間を多く見かける。自分だけが知ってるのだから自分の考えとして吹聴しても良いだろうって事から始まって、思考回路がネット受け売りに支配され、まるで自分で考えない人間が増えているような気がする。インターネットで便利にはなるが賢くはならないのだ。賢くなるには資料の読み方を十分トレーニングしなければならないのだ。虚実含めて流れてる資料から本物を見抜く力が有ってこそ情報化が推進されたと言える。
時代が変化しているのに相変わらず大学では「レポート提出」なんて愚行を重ねている。レポートなんてのは資料で、それこそインターネットで検索してカット&ペイストしてできあがり。しかも内容は最先端の情報だから教授するら審査するためには勉強しなくてはいけない。
学生のレポートの質が高くて四苦八苦ですわぁ。なんて脳天気な教授が居るが、そもそも学生に「資料」を求めている教育が完全に壁にぶち当たったのだ。今までの大学教育は定期試験とレポートで「教育している風」を装っていたのだ。
それで良かったのはネットワークが未発達で個人が右から左に情報を流すのが困難だった時代の教育手法。これだけ資料が飛び交う時代に10年一日のように改革の遅い大学がまさに自己矛盾を突きつけられているのだ。最高学府が一番だらしないのだ。社会人を育てる教育をしてこなかったのだ。だから、企業は学生を1から鍛えるし、企業が大学に社員を派遣して研修したりはしないのだ。
ここがアメリカの教育と著しく違うところだ。大学は数ある教育機関の中で一番企業に近い。それ故に企業から求められる教育を行い学生の学力を形成しなければならない。それを戦後60年怠ってきたのだ。そして、象牙の塔で独立独歩でやってきた事が崩壊しようとしている。
「生きる力をはぐくむ」→「ゆとり教育」
教育にこれが絶対ってものは無いのは百も承知だ。過去文部省、現文部科学省は紆余曲折を経ながら教育制度を変更してきた。しかにここに来て学習指導要綱が「ゆとりの教育」を打ち出して「学校で教える平均では無く、学校で教える最低限を規定した」と訳の分からない方針で授業時間と密度をばっさり切って薄い教育に転向してしまった。
学校で教える平均に達しなかった者は「おちこぼれ」で済むが(それも、問題はあるのだが)、学校で教える最低限に「おちこぼれ」たらどうすれば良いのか。もはや教育を受けてない人間なのだから今の日本の社会では生きていけないのではないのか。そんなものが「ゆとりの教育」だろうか。それは「最悪の教育」なのだ。教育を「最低限の知識」に矮小化し伸びる者には手をかざす、落ちこぼれる者は切り離す(最低のボーダーラインの下は切り離ししか無いのだ)、これが「最悪の教育」でなくてなんなのか。
しかも、このために膨大な国民の税金が義務教育の名の下に投入されてるのだ。
自己改革出来ない日本の教育関係者
馬鹿な文部科学省にはつき合いきれない。
国民のための工夫、努力を放棄したのなら税金を返せ。
今、考えなければならないのは時代の変化に合わせて
教育の効率をどのように向上するかなのだ。ここ20年をとってみてもビデオやDVDを教育の現場で活かす工夫をして来たか。教科書をスクリーンに投影してプレゼンテーションするような授業をして来たか。もっと古くはテープレコーダを用いて英語のヒアリングの授業を行ったか。不実行の理由は一点に絞られる。それは「入学試験で行われない」なのだ。
そして最終段階である大学は入学試験で選別し、定期試験で単位を発行し、ペーパ試験能力が高い者が進学していく構造に陥ってしまったのだ。その反省は10年や20年も前から叫ばれている。当事者だけが耳を塞いで自己改革を怠ってきたのだ。
教育改革だって歴代の橋本や今の小泉が叫ぶが、彼らが叫ぶのは「教育制度の改革」であって「教育の精神と実践の改革」では無い。もはや「制度が実状に合わない」のでは無くて「関係者が井の中の蛙で実状を知らない」ことこそ改革すべき命題なのだ。選挙で当選することが至上命題の政治家や、前例主義で保身する官僚には出来ない相談なのだろ。
だとしたら日本の「政治制度改革」が必要なのだ。