長野に見る議会制度と知事制度の制度欠陥
喧嘩を売らなかった田中康夫
長野県の事情は特殊な背景があるのだってことをまず言っておきたい。前に書いたが長野オリンピックは「長野県」オリンピックだったってことに起因する。北海道よりも旧社会党が強かった地域だが、実際に地域を牛耳っていたのは「信濃新聞」、「長野県庁」、そして「長野教育委員会」なのだった。82銀行が田中氏を担いだのが今回の騒動の発端でありそれは1年8ヶ月前のことだ。
議会で不信任案を議決されて「冗談じゃない、議会が馬鹿だから県政できへん」と言えば良いのだが、ここは知事選挙に討って出たのが今回の田中知事の選択。
本来の田中知事の感覚なら「10億円使って知事選挙しても私が選ばれるのだから、先に県議会議員選挙をして両選挙で掛かる選挙事務経費を半分にしたい」とか言えば良いのだけれど、やはり「保身」が働いて「YesかNoか」の一人選びの知事選を選んだ。これは方針、戦略では無く、戦術に起因するのだろう。ある意味、かなり追い込まれたと感じる行動なのだ。また、田中氏にとっては性格的に白黒はっきりする方法を選んだのだろう。
長野県に限ったことでは無い。住民は選挙に駆り出されるが、その意味をほとんど解らない。選挙制度がいかなるものかを教育の現場で教えてこなかったのが戦後55年を過ぎて日本が腐って来た要因だと僕は思う。戦後の「民主主義教育」ってのは議決、多数決にこだわりすぎた、民主主義ってのは議論を積み重ねる会話の政治手法なのだってことは誰も言わなかった。自民党が数を頼んで国会を運営するのが「民主主義」だと見せつけられたのだ。
しかも無能な教師は学校で「民主主義=多数決」みたいな教育を行うから生徒会なんかも人気投票で今のイジメにつながるのだ。一億総横並びを作ったのは日教組であり、現場の教師なのだ。正直大学の現場に居る身としては日教組が目指していた教育は戦時中の「報国奉公」なのではと学生を見ながら思う。今の教育委員会は過激に「左翼」なのだ。一律教育が目指すものは「集団行動」。でもねぇ、「個性を伸ばす教育」にはあなたたちは「人手が足りない」と言う。
個性を伸ばすには個別対応じゃないのだ。精神なのだ。だが、義務養育って利権で生活している教師にはこのことが解らない。所詮、国家公務員なのだ。国民の税金から生活の糧を得ているのだから国につくすべきなのだ、給料払って「打倒」なんか叫ぶ集団を経済的に支援してるのは基本的に納税者には「馬鹿金配り」に見えるのだ。
話しが逸れた。
明治以降の国民の国政参加権だから選挙って制度が民主主義の根幹として根付くまでにまだ時間がかかるのかな、なんて思っていたのだが、さすが戦後55年を過ぎて日本の民主主義は日本の文化として今の「世話になった」、「知り合いが職場に居るから」みたいな「利害の1票」になってしまった。つまり、国政のような知らない人が立候補してると違い、地方では「利害の1票」になってしまったのだ。だから、議会のように複数の議席が選ばれるときは「情に」。知事のように1つの議席の場合は「政策に」重点を置いて投票することになる。
逆に言えば、何処の地方議会も「名誉職の人気職」になってしまったのだ。議会としての機能を市民が放棄してしまったのだから、なにおかいわんやである。知事は政策論争の結果選ばれ、議会は「人気投票」では「ねじれる」のは当たり前である。
それぞれが担う民主主義、「知事」、「県議会」
県議会及び市町村議会に通じるのだが、住民の直接選挙で選ばれた組長と、同じく住民の直接選挙で選ばれた議会議員との関係は「支持母体が同じ」って構造で今まで来ていた。今回の長野県議会も田中氏後の後継知事候補に「県議会の推す人」なんて訳の解らないことを言っている。
ここで気が付かなければならない事は、知事は行政のトップ、県議会は立法のトップって役割分担だ。何処でもこれは逆転している。知事が立法を行い県議会が追従する形態の最たるものが石原慎太郎知事の東京都だろう。石原慎太郎って人は期を見るのが上手な人だ。国政の場で「立法」に携われないのなら「知事」で立法してやろうってのを青島都知事の博覧会中止で嗅ぎ取ったのだろう。だから東京都は都知事が「外形標準課税」を立法してる。これって、国会の「官僚主導の国会運営」と言われていることと同じなのだ。
本来の立法の府である議会がまったく名誉職化して機能を果たしてないから起きる「ねじれ」なのだ。
知事は行政の長として行政機関の運営にあたる責務を担う。だから、行政の非効率的な部分を大ナタで改善する責務を負う。そのために「経営手腕」が求められる。ここまで言えば役場出身者が立候補する事態がアブノーマルだと解ると思う。組織出身者が組織を大事にして道を誤った事例は「北海道拓殖銀行」、「山一証券」、「UFJシステムのトラブル」と枚挙にいとまが無いのだ。
繰り返すが、知事が行政のトップであるべきなのだ。知事に求められるのは行政の効率化の手腕なのだ。でも出来てない。
同様に議会に求められるのは「立法の手腕」なのだ。だが、機能不全で名誉職化してるのが今の県議会議員だろう。つまり、まったく不要なのだ、県議会なんてものは。
立法技術を持たない県議会議員、国会議員
選挙広報には「政策」が付いて回る。がしかし、ほとんど実現しない。「自民党って組織の中で組織の一員として出来ることは限られる」なんて論調で消費税反対を公約にして当選した議員が言い訳したりする。
選挙公約とは立法への預託である。公約した法律の議員立法(かりに廃案になっても)を預託されたのだから立法の手順を放棄するのがは詐欺である。公約違反と言われるのは努力以前に制度を利用して公約実現に向かってアプローチしたかってことだ。それすらしていないで「当選」が目的って議員が多すぎる。
これは国政でも地方自治でも同じである。立法府が機能していないのだ。その一番の理由は能力が無いからだ。その能力が無い人間が立候補し、それを住民が選ぶからだ。もうこんな「お約束」は辞める時期に来ているのだろう。市町村合併に伴い、戦後の民主主義を反省し、総括することにより、新しい地方自治を目指すべきだろう。
「市町村合併は真の民主主義実現を目指して行うのだ」って組長の宣言は少ないが事実存在するのだ。地域の人気投票の名誉職を止めて、政策論議の市町村議会を作るチャンスなのだ。国政が腐ってるのでは無い、地方議会が腐ってるのでは無い、日本の民主主義が制度疲労しているのだ。
その解決策の1方法として、長野県を彼岸の火事とせず学ばなくてはいけない。