どうもならんな鈴木宗男事件
当時のインタネの北海道開発庁のページ
当時は最悪のホームページと言われたのが開発庁のホームページ。なんせ、最初の画面に鈴木宗男を筆頭に北海道開発長官と副長官が顔写真入りで出てくるホームページだったのだ。何か勘違いしてないかぁって開発局の仕事相手に話したのだが「あれは、1年もすれば変わるから、我慢、我慢」ってことだった。あのホームページに象徴されていたのだよ。今になってゴタゴタしてる根源は。
役所との付き合いが長いので感じる事は職員に「台風が過ぎるまで」の意識が強いこと。自ら「公僕」ではなくて「下僕」精神なのだ。これではトップが駄目でも従うって構造が出来上がってしまう。国会から選ばれた行政の長が税金の執行運営をするって構造なのだ、これって3権分立の精神に合っているのだろうか。
行政の長は立法府から選ばれるのでは無く直接選挙で選ばれるべきだろう。それでこそ「三権分離」なのだ。小学生に社会科を教えている教師は「日本の政治制度は三権分離」などと杓子定規に教えないことだ。実際は「歪んだ三権分離」なのだ、試験で「三権分離」だけが丸をもらう事に疑問を感じて授業を行うべきだ。
「まったく馬鹿なんだからぁ、今の学校教育」
地方自治の三権分離と議員内閣制をとる国会の三権分離との違いを小学校の教育の現場でもキッチリ教えるべきだ。国会の議席数を丸暗記する教育では次世代を担う人間は育てられないのは自明だろう。にもかかわらず、なんであんな「無駄な」授業をやってるのだろう。
丸暗記より自分で考える力をつけるための情報提供が授業の本来の進め方でなくてはいけないのだが。
官主導の談合なんだろうなぁ
実はこれを書き始めたのは7月の20日。この辺りから自転車紀行記が忙しく書き足していなかった。で、その間に出てきたのが網走港工事に伴う官製談合事件。宗男の指示に従って特定業者に発注するには官製談合を演じなければ法律に違反する。唯一、官製談合だけが違法では無く脱法の範囲に踏みとどまる。
政治家からの要請(強要?)に頑として受け付けないのでは無く、保身のために策を労したのが先の官製談合だろう。公務員の「生きるための知恵」なのか。なんか政治家の下僕だなぁ。結局「他人の金意識」が自らの責務を忘れさせるのだ。他人の金を不正に10万円使っただけで「逮捕、拘留、検挙、裁判」なのに、何故か公務員は「おとがめなし」。
企業は良いか悪いか別にして「株主訴訟」で経営責任を問う制度がある。公務員は責任を問われる「お白砂」が無い。当たり前だが「官僚主導」ってのは公務員に税金を使う自由(自由なんて許されないのだが)を保証してしまっているのだ。政治家がその「分け前にあずかっている」。そんな些末な状況なのだ。
日本は資本本位社会の中で社会主義に近いと言われるが、もうもう共産主義ですよ。立法府が行政に口を挟むってのは共産主義なんですよ。
公務員の処世術を断絶するべき
口を開けば「政治と金の問題は是正しなければならない」と言う政治家。与党野党を問わない。皆共通フレーズしか吐かない。吐けない情けなさを感じる。政治と金の問題では無いのだ、政治家と公務員(官僚)の問題なのだ。ギブ・アンド・テイクの癒着を切らなければならない(だって、立法府と行政府はそれぞれ独立してなければならないのだ)のに、そこに切り込める「勇気」の有る政治家は居ない。「政治家稼業」には行政側の子分が居る方が便利なのだ。だから、「立法府に居る政治家と行政府に居る官僚の癒着」こそが日本の政治を腐らせてるのだってことを政治家は認めない。認めた瞬間に子分の官僚は離れていくのだから。そしてそれは「自分でやらなければならない」って手間と金の掛かる政治家生活を強要され耐えられないのだ。
立法と行政の関係を断ち切る。それが出来ない政治家からは先の常套句しか出てこないのだ。小泉の「首相公選制論」なんかどこかに消えてしまってる。それは、今まで書いたように「立法府と行政府の癒着」を小泉が認めた故なのだ。
地方から変わるのかも知れない
長野県の田中知事は再選されるだろう。地方では国会での茶番劇に退屈した(なんせ戦後60年もやってる劇だから)観衆が三権分離を最大限に利用している。組長には行政の責任を問う。議会には立法の責任を問うってことだ。議会が行政の責任を担ってるような今までの流れはおかしいのだ。そこには小粒の宗男がたくさん居る。もはやそのような税金流通は完全に市民主導に変わりつつあるのだ。それが、知事選での政党離れである。
長野県の例を一般化しようとは思わない。あの地域は「県庁」、「信濃新聞」、「日教組長野支部」で思想統制をしてきた東ドイツなのだから。そこには「壊す人間」を選び「壊した後に作る人間」を配備しなければならないのだ。今回の長野知事選挙に「壊した後」の使命を帯びた人材が壊し方が中途半端な現状に参戦するのはいさみ足だろう。
明治維新を振り返ってもらいたい。壊す人間が活躍したから新しい秩序の担い手である伊藤博文、板垣退助の活躍の場が用意されたのだ。僕は坂本龍馬が新しい時代を作れたか疑問を持っている。悲劇のヒーロを日本人は好きだが、結局ジェームスディーンを坂本龍馬に重ねてるだけの歴史認識の浅さなのだ。「壊す役」の役者なのだ坂本龍馬は。それを勘違いして坂本龍馬を崇拝する人間の教養の浅さに我慢できない。
今が「壊す時」なのか「壊した後」なのか組長を直接選べる地方選挙では考えてもらいたいと思う。北海道知事選挙は「壊すとき」、札幌市長選挙も「壊すとき」、で、逢坂ニセコ町長よぉ。おたくの町も「壊すとき」の対立候補が居た方が良いと思うが。
マスコミ(HBCラジオの「一筆啓上」だけだが)に次期北海知事なんて言われて、それでも薄笑いしながら出てるアンタってヂュカキスと同じ「出たがり人間」としか見えてない。マスコミ好きは結局サッチーと同じ道を辿るのだ。あんた、ニセコ町のために何をしたのさ。ニセコ町を足で踏んで踏み台にして、町民の顔を踏んでラジオに出ているのが得意なんかぁ、たかだかニセコ町の町長でしか無いのだよ。
うちなるエリート意識が鼻持ちならないのだ。「一筆啓上」でコメンテーター的な発言を聞くにつけて「選挙制度ってのは禊ぎだなぁ」と思う。対抗馬が居たら応援したいのだが、地方に住む人にしか投票権が無い。