政治に運営を望むのか経営を望むのか

前から言っていることなのだが
 来年(2003年)の統一地方選挙の話題がやっとマスコミで流れるようになった。本当は日常的に政治を伝えてもらいたいのだがマスコミはステージを移しただけで、やってることは芸能レポータ的番組ばかり。ま、これは「時代」なので、しょうがないのかもしれない。
 北海道の札幌に住む僕としては日本全体と同じように「森、堀、桂」と一文字組長の悲哀を感じている。森→小泉の変化は有ったが「堀→?、桂→?」の状態だ。とにかく一文字名字に札幌市民は最大のトラジディにここ4年間晒されていたのだ。
首相が「森」、知事が「堀」、市長が「桂」では3重苦なのだ、で、頭から徐々に変化したのが今なのだが。
 基本的にこれからの日本の自治体の政治は「民間感覚」の時代だと思う。今まで自治体も中央と同じように「政治感覚」だったのだ。経済が右上がりの時代には政治(律令国会制度)は遊んでいても良い時代だった。しかし「経済問題」が政策になる(僕は、この観点に懐疑的なのだけれど)緊迫した時代に、政治(国会)は官僚の手先になってしまている。言葉をかえれば犬橇に乗るのが官僚で、それを引く犬が国会議員って構図が浮かび上がる。
 そもそも「律令国家」ってなんなんだ、ってあたりから今回の話しを始めたいと思う。

聖徳太子が日本を国家ならしめた
 今の中学校(義務教育)の日本史は何処から始まって何処で終わるのだろうか。僕は太平洋戦争終了後の日本の新教育体系が60年も変わっていないのは変だと思う。特に歴史教育がGHQの指導のまま「神国返り許すまじ」って姿勢で貫かれているのに変革のアイデアが教育界から出ないのが不思議でならない。
 多くの日本人は明治維新からの100年を知る教育を受けていない。義務教育がしていないのだから国民が馬鹿になってもしょうがない。3学期の受験時期に高校入試に問題が出ない日本の歴史の、特にここ100年をまともに教える学校は無い。民族の歴史を教えない教育に国民が税金を払ってるのは日本くらいではないのか。
 だから護衛艦に乗船した時に、海上自衛隊員に北杜夫が「ここに東郷元帥の写真が貼って有るのだねぇ」と言ったら「ああ、戦犯で死刑になったのにね」と答える自衛官が出るのだ。東郷と東条の区別も付かない教育を日本はしているのだ。
 日本の始まりを何処にポジショニングするか議論が有ると思う。僕は聖徳太子の大化の改新を日本の社会制度の始まりと受けとめるべきと考える。それ以前は「神話」それ以降が「歴史」で十分説得力有ると思う。何故ならば「社会科」ってジャンルで地理、歴史、政治・経済が共に接点を見いだせるのがこの時代だと思うから。
 で、始まりはここに決めるとして終わりはどうしよう。

歴史のカタストロフィーは革命
 歴史ってのは因果応報のプロセスだと思う。良く「歴史にモシは無い」と言われるが後世の人々が歴史を知る意義と言うのは「起点と終点」の因果関係だろう。その意味で歴史を後世が学ぶ意味が有る。イギリスのビスマルクは「賢者は歴史に学ぶ、愚者は経験に学ぶ」と語ったが、まさに、歴史を学ぶってことは「転ばぬ前の杖」なのだ。だから義務教育に「歴史教育」が必要なのだ。
 ただ、歴史には不連続面がある。それが、革命である。昭和20年8月15日の玉音放送はまさに歴史の不連続性を演出しているのだ。そこに至る影のプロセスまで学んだ人には違和感ある意見だと思うが、結局、社会制度が崩壊したのが昭和20年8月15日なのだ。
 この「歴史の不連続線」は歴史を調べると時々に現れる。「保守派、革新派」なんて言ってる以前に「時代」が変わる時が有るのだ、日本では先に書いた「大化の改新」から始まり「細川政権誕生による55体制の崩壊」まで沢山ある。
 その意味で日本の義務教育での歴史教育は明治維新で分断すべきと思う。現在の日本史は1867年まで。逆に1867年を起点にした「日本近代史」ってカリキュラムを作るべきだ。古い歴史教育と平行して近代史を義務教育に取り入れるべきなのだ。そんな改革すら60年間されたないのが文部省(現文部科学省)の役人の不作為責任なのだ。
 どう考えても歴史教育に何も改革してこなかった文部科学省の責任は大きい。そもそも「官僚には責任が無い」って考えなのだろうか。役人って責任無い仕事してるの?

律令国家は過渡的制度なのだ
 国家の条件って沢山言われてるが1)領土、2)国民、3)制度、が基本だと思う。その中で「国が国民から税金(これは今の時代)を集め国家を運営する」って経済機構は2000年前に人類が気が付いた制度なのだ。それが当時の近代国家かどうかは別にしてこの2000年間は国家は税金で運営されるって時代だったのだ。
 しかし、古代アテネのようにシチズンで運営される国家も有った。これは「奴隷」って労働力によって成り立つのだけれど。でも、現代社会は人間を奴隷にしなくても機械を同等の機能に置き換えて古代アテネのポリスのような国家運営が出来ないだろうか。多くの工業生産に機械を利用しているが、もっと技術革新が進めばこれを150年程前のアメリカの奴隷による労働力に置き換えられないだろうか。
 そもそも、人類の科学技術が進むってことは国家の運営方式にまで影響する事柄なのだ。ところが、いまだに「大化の改新」から一歩も出ていないのだ。根本を考えると良いと思う。民から税金を集めて民間では出来ない不採算(採算って観点も無いのだが)事業を行うのが「律令制度」なのだ。だから、民間に出来ることまで税金で行う必要は無い。その意味で小泉首相のキャッチコピーは正しい。だが、現実に民間で出来る事以前に、民間で行うことを管理監督する外郭団体が多いだろう。これにメスを入れなくて小泉の発言は意味を失っている。
 コンピュータを中心とした新たな技術を踏まえた行政のあり方を考えてこその構造改革なのだけれど、小泉には2000年の歴史観すら無い。

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2002.12.01 Mint