正論で破れた岡田、迎合して復活した菅直人
求心力無き民主党の再生方法は
「工学的手法を政治に持ち込む」これが鳩山由起夫氏が学者から政治家に方向転換した時のキャッチフレーズだった。申し訳ないが「公務員」と「学者」には政治は出来ないと思う。正確に言うと「リーダーは出来ない」ってことなのだ。これに「自衛隊関係者」を加えて僕の考える「リーダーシップが無くても勤まる分野のベストスリー」となっている。リーダを経験していないのだから、当然リーダーの苦悩も解らない訳で、「勤まらない」のは明かなのだ。
この場合の「リーダ」とはコンバットのサンダース軍曹のようなリーダでは無く、荒野に道を作る、ビジョンを持った統率力の有るリーダーの事だ。
民主党の根本的問題点は「バラバラだ」と言われる事にあるのでは無い。個々の構成員がバラバラでも良いのだ。それは利点なのだ。鳩山氏はここを考え違いをしている。菅直人も同じだし、岡田氏も同じである。個々人がバラバラなのは利点なのだ。梁山泊を見れば解るだろう。個々人がバラバラでも強力なリーダが居れば最強軍団に成れるのだ。その見識を持ったリーダが民主党に居ないのが民主党の悲劇なのだ。
日本OR学会の会長であった鳩山氏には釈迦に説法だが、「工学的手法」を用いていないではないか。工学的に言えばバラバラの磁極でも一定のバイアスを掛けて音楽テープに録音して素敵な音楽を再生できるのだ。0と1しか無いピットでも集まれば音楽cdになるのだ。その「工学的」感覚が学者ボケで失われているのだろう鳩山氏は。しばらく充電し、60歳になって「起つ」って気概を求めたい。人間「勇気」を失っては廃人なのだ。決して「勇気」を失わないでもらいたい。「OR手法を政治分析に使う」ってことは大事な事なのだ。是非とも考察していただきたい。
市民運動出身の菅直人の多数派工作
「数で勝たなければならない」。こんな考えは民主主義を愚弄する考え方なのだ。「数で決する」は今だかって何が主権在民なのか模倣している現在の不完全な民主主義の1手法なのだ。それが全てでは無いし、それのみに民主主義が依存している訳でも無い。
日本人は言葉にもてあそばれ易い。デモクラシーとは自己主張の政治手法なのだが、戦後の学校教育ではデモクラシーが「民主主義」って言葉に替えられ「多数決制度が民主主義」と完全に本質を違えている。それが、受け入れられてる社会。つまり、言葉にもてあそばれる文化が日本語民族には潜在するのだろう。
最近の話題で言えば、「個人情報保護法」がある。言葉は「保護」だが、内容は「利用へのお墨付き」でしかない。かつて中曽根康宏が言った「大型間接税は導入しない。が、消費税は導入する」って選挙の前と後で180度違う方便に国民は妙に納得したりしているのだ。
このような詭弁を許さないのが「市民の視点」から発する市民運動なのだ。市川房江の参謀だった菅直人には解っていると思うが、市民の視点の市民運動は天下を目指す行為と基本的に違うのだ。市民の視点の市民運動は目的達成のための時限立法的プロジェクトであり、その目的だけについて合意した集団なのだ。例えてみれば「校長のやり方には改善を求める」が「現在の文部省の方針と、これは別物なのだ」って一点突破の目的の明確化が市民運動なのだ。
菅直人はここまでは出来る。が、民主党の標榜する「政権を担う政党」に菅直人の感覚でなれるはずが無い。一点突破の人間に日本の総理大臣を委せられるかぁ? あ、小泉に委せてるかぁ(馬鹿笑い)
しかも、「一点突破」の感覚が「野党第一党>政権政党」に意識変化しているのだから、ま、民主党はNPOにでも成り下がったほうが良いのだろう。政権は野党だとか与党だとかでは無い。国民を導く指導力が政権に求められているのだ。金を引力にしてきた自民党と対立する引力を形成できていない野党が「なんでも反対」に陥るのだ。
自らの引力形成に汗をかけ! 内部の権力闘争にたけた人間が「代表」では無いだろう。
出て行け横路
まったく民主党の「旧政治信奉者」が今回の投票で菅直人に投票しているのが「横路孝弘派」の動きなのだ。社民党の土井と同じように北朝鮮拉致事件での責任を、問われなければならないのだが、何故か不問にされてる。これは民主党のアキレスケンだろう。そのアキレスケン頼りで再選に向かった菅直人は「爆弾抱えたリーダ」でしか無い。旧社民党(社会党)は野党として失格なのだ。その事を明確に総括しなければならない。
「腐った野党」こそが今時点での政治手法で「もちつもたれつ」なのだ。2大政党なんて「幻想」は野党が頼る思想では無いのだ。民主党は分裂しなければ国民のニーズに答えていない。本当に国民に向けてどのようなメッセージを発信できるのか。それが、これからの民主党に任された課題である。
旧社会党関連議員に頼った菅直人は最低である。歴史を卷き戻した。そのリーダでやれるのかぁ、民主党。