知事選>結局、役人天国なのか北海道は
「さかな天国」って曲が流行したが
「さかな、さかな、さかなぁ、魚を食べるとぉ」って歌はテレビと言うよりもスーパーの魚売り場でエンドレステープで散々聞いたって人が多いと思う。この音律で「役人、役人、やくにぃん、役人が食べるぞぉ。市民、市民、市民、市民の夢を」と僕の耳には聞こえる。北海道の地方自治は「役人天国」だったのだ。これからもそれで良いのか、それを考える絶好の選択が今年の統一地方選挙での北海道知事選挙だと僕は思っている。
だから、結果によっては僕は北海道庁を捨てようと思っている。もう、どうでも良いって諦観の境地に入って、北海道の自治には何も考えないうようにしようと思っているのだ。ここのホームページでも北海道の政治のことは書かないだろう。役人には何を言っても無駄なのだから。古い言葉だが「親方日の丸」ってサラリーマンには、もうお付き合いしたくない。
ここ50年の北海道は「石炭と国鉄」の時代だったと思う。あえて、空白の10年を差し引いて1945年〜1995年の50年を考えるとフィットするだろう。逆に1995年から今までの8年は何なのかって事がある。この時代は迷走の時代だったのだろう。知事が役人出身者では当然の結果と言える。過去の価値観が否定され、一番変化が激しい時代に、北海道知事は過去の価値観にさらなる山を積むことに終始した。その知事が「IT施策」なんて事業をどれほど理解していたかはなはだ疑問だ。
昔、横路知事の時代に「NF212」って構想が有った。北海道全体を支庁に分散したコンピュータでネットワークして道民に「パソコン通信」を安価で提供するって訳の解らない行き詰まりの企画だったのだ。これは当時の大分「コアラ」のパクリだったのだ。そこに設置されるコンピュータは「富士通か日本電気か」って低レベルの話しだった。家庭のパソコンにNECのLEVEL-2Bをインストールする奴が居るかぁ。
北海道を「いかにとやせん」てのが今回の知事選挙のメインテーマなのだ。にも係わらず、既存の組織は「役人天国」路線一直線なのだ。それが民主主義を歪めてもなんでも「自分が可愛い」ってことで北海道知事を推薦する自己チュウ感覚が解ってない末期的組織が我々の税金で養われてる(全道労組のことじゃよ)。もう、たいがいにしてもらいたい。「役人天国」でいかに北海道に住む人間が苦しい思いをしているのか。
「石炭と国鉄」の次を歴代の知事は示していないだろう。これからの知事である候補者も美辞麗句で基本的な事が解ってない。これからの国鉄と石炭に替わる産業を誘導できるかどうかがこれからの自治経営者である知事に求められる指針なのだ。
ところが、これから楽しみにしているが「イラン緊迫の今に..」とか、共産党でも言わない世界状勢を捉えて北海道知事の政策にしている輩が出てくるだろうと推測される。地方自治と国政は違うのだ、全共闘が演説の頭に「アメリカ帝国主義がぁ」って付けるような愚を何故大人である知事選挙候補が叫ぶのか。それは、政党の後ろだてを得ているからだ。
これからの北海道知事候補者が政策を語るとき国の専権事項である「外交と防衛」に一言でも触れたら、それは地方自治のトップとして失格なのだ。支援団体である国政の場の政治集団に言わされてるのだから。これは候補者への重要なチェックポイントであると思う。
そもそも今の組長選挙は「役人天国作り」制度
大いなる実験を60年続けてきた。だが、今の地方自治は「争点の無い所に民主主義は育たない」って名言そのものである。民主主義ってのは議論を通して争うことなのだ。それが暴力でなくて説得力によるって制度の構築を目指してガンジーは「無抵抗主義」を唱えたのだ。基本は意見の暴力による鎮圧を押さえ、次に、自由な意見表明が有るのだ。その意味ではガンジーの「無抵抗主義」ってのは目的では無くて民主主義成熟のプロセスなのだってことが今の時代に解る。
今の北海道の組長の中で民間出身者はどれくらい居るかご存じだろうか。2/212なのだ。99%役人出身者が地方自治のトップに選挙で選ばれてるのだ。この事実を市民はどのように捉えているのか。結局60年前に始まった今の地方自治の選挙制度は当選確実の役人出身者で席巻されてるのだ。これが、本来の理念と合致するのかはそれぞれの市民が考える課題だが、僕は「今の組長選挙制度は民主主義では無い」と思っている。
民主主義を維持するために誰かが今の仕事を捨てて立候補しなければならない今の選挙制度は結局定年間近の役人しか立候補出来ないのだ。家族を養う大黒柱が、ある意味で「たかだが人気商売の組長」に魅力を感じる訳がない。
日本の地方自治は問題を含んでいる。その最大の課題は組長選挙を民間参入に解放していないことだ。
役人が牛耳る行政って本当の行政なのだろうか。行政は「市民本位」って組織なのだが、何故か自己増殖してる。その組織が市民にNoを突きつけられてるのだ。中国では赤衛兵の時代に...。ま、公務員って分類のサラリーマンは時代を謳歌したのだ。
今の制度では役人しか立候出来ない地方自治が民主主義に立脚してるのだろうか。
役人が就任する自治なんて止めてしまえ
て、ことで、身の振り方を政策なんて言葉に替えて特殊公務員を続ける今の制度を改革しなければならない。そのためには、公務員法を改定してはどうだろう。天下りが制度の縛りがあるにも係わらず蔓延してるので、この案は難しいかもしれないが、組長選挙の立候補条件に
「直近の2年間に当該地方自治体の職員(但し、特別職を除く)だったものは候補者として立候補出来ない」って条文を加えるのだ。
再選は認める。他の自治体で立候補するのも良い。しかし、役場出身の組長は認めない。役場出身者が組長を目指すなら2年間以上役場の職員を離れなければならないってことだ。その間に民間で研修するのも良いし、浪人して遊んでいても良い。で、しかる後に組長選挙に立候補すれば良いのだ。
特別職を除くので、現在の組長は特別職の任命にナーバスになるかもしれない(寝首を欠かれる?)。でも、それが緊張感を醸し出して良いではないか。
あえて、個人名は書かないが、副知事を辞めて知事選に立候補するのに「35年の道庁生活に悔いは無い」ってのはどうゆうコメントなのだ。悔いがあるから組長に立候補するのじゃないのか。新しい組長が決まった時に辞任しなければならないから職安的な立候補じゃないのか。見識を疑ってしまう。
役場内部から候補者が出ては地方自治の直接組長選挙制度を形骸化させてしまう。カルロス・ゴーンのように企業を(役場を)渡り歩いて再建するなんて人材が現れても良いではないか。その意味で「資本本位社会では行政もまた、経営である」って視点が60年間無さ過ぎたのだ。そして「税金徴収マシン&借金放題マシン、それを、ばらまきマシン」って共産国でも疑義が出そうな経営を行政は60年続け、借金棒引きにはインフレって市民不在の解決策しか思いつかないのだ。
江戸時代の農民のように市民は扱われている。そこに「民主主義」なんか無いのだ。
「役人天国」これが今の北海道であり、日本なのだ。