統一地方選挙で問われる「民主主義制度」
あえて「民主主義制度」と呼びたい
国民主権とか人類皆兄弟とか、少なくともチンパンジから別れた人類が本能では無くて制度として集団生活を秩序あるものにしようと努力した結果が今の「民主主義」なのかもしれない。でも、このイデオロギーは本当に完成形になったのだろうか。
政治を特定の議員に預託するって考え方はアテネの時代の直接民主主義と合い居れない。しかし、時代は産業革命を過ぎて第三の波の時代に入り、政治は市民の唯一最高の使命では無くなっている。残念なことだが、政治が市民の預託になってしまい、限られたいわゆる政治家が方針を決めてしまう。その反動が「情報開示」、「説明責任」なのだが、その前に市民は市民たる責任を放棄しているのではないか。
民主主義は壮大な理論だ。現実はその理論に向かって様々な方法が模索されてるのだ。だから、アメリカのフセイン政権への軍事攻撃なんてのは、理論の不健全さの証明なのだ。
他国の政治に軍備を用いて口を挟むのは内政干渉の典型であるが、なぜ、アメリカに対して「内政干渉」と各国は叫ばないのか。同じように、市町村合併に「合併特例」なんかを用いて合併を誘発する自治省は直接選挙制度で選ばれる地方自治体の「制度」を解っているのか疑わしい。
たぶん、制度として議会議員選挙と組長選挙が並立する選挙制度が正解なのだと思う。だから、そもそも同時に行う今の選挙制度に課題が無いだろうか。「統一地方選挙」は「統一組長選挙」と2年ずれた「統一議会議員選挙」に分断すべきだなのだ。4年に1回では市民の参政意欲は退化してあたりまえだ。出来れば、これの隙間に国政選挙を加えて毎年市民が投票による意思表示が可能な制度に作り替える必要がある。
「今年は大きな選挙がない」なんて国民の参政権をないがしろにする状況を見ながら選ばれた政治家が「今年は安泰」みたいな感じなのは、なんとも民主主義と選挙制度が未だ発展途上な現れだと思うのだが。
地方の時代は何に裏打ちされていたのか
10年も前から「地方の時代」が叫ばれていた。地方は国政と違い利権団体のしがらみ、既得権のしがらみが薄いので改革が国よりハイピッチで行えるって実践だろう。今の時代になって地方自治では政党政治の支配が薄れてることにその事象は明確になって来ている。
こと政治・行政の世界では地方自治は国政に無い市民本位な機能が発揮されているのかもしれない。それは「より市民に近い」ってことだろう。地方分権が市民が望む行政であり、今の国政のように議員が組長を選ぶ制度は弊害が多く、腐敗の温床なのだってことを市民は歴史から学んだのだ。
そこに「自民党をブッツブス」と叫んだ小泉首相が出現したのだが、理念は有るが行政手腕が無いのが小泉首相の欠陥だ。だがしかし、考えてみると平成に入って10人も首相が変わり、行政はトップに1年そこそこが任期の臨時職員を仰いでも「台風が過ぎるまで」とまったく仕事をしない環境になったのではないだろうか。新しい政策を上程したくても日替わりの大臣に説明するだけでエネルギーを失ってしまう。その意味で、長期安定政権を樹立することが「政治主導の行政」の基本なのだが、日替わり大臣を重ねてきた自民党は理念なき天下取りだけの集団だったのだ。
地方自治では国務大臣よりも平均任期が長い。多くは4年は続ける。その組長を「台風が過ぎるまで」とボイコットしていると、都合4回の人事で職員はスポイルされてしまうのだ。その緊張感が役所の効率運用になにがしかの効果を持つ。がしかし、昔の同僚が組長ではその効果は望むべくも無いのは自明だ。
長野県を見てみると「ちょっとやそっとで替わらない田中知事」って存在が役場職員に改革意識を植え付けている効果は否定できない。つまり、今の国政の場ではトップの総理大臣が替わっても官僚は「トップがアホやから国を運営できへん!」と江本のような行動をとっても「台風が過ぎる」まで持ちこたえられるのだ。そうでは無い、トップの指示に従えと言えるほどの任期が、かつての国務大臣には無かった。
地方にはリコール制度と表裏一体に組長の4年任期が醸すトップ主導の動きが有るのだ。
市民がなすのはリコール
民主主義ってのはルール(制度)であり、それでしか無いと思う。行政の新しいリーダは組織を機能っせるために時間が必要なのだから、出来るだけ長期ビジョンを策定できるように長期に任務を遂行するのが望ましい。一方で独善的にならないように市民の監視が必要になる。地方自治の場ではリコール制度が機能する。市民の望まない制度を実行すればリコールの対象になるのだ。
これが、国政の場では存在しない。だから、市民無視の勝手な「大臣の椅子回し」なんかがまかりとおる。それが「良くないこと」って大局に立った意見も出ない。村山政権の時に建設大臣になった五十嵐公三なんか、有頂天の大臣踊りをしたのだ、今も陸別町の庁舎にプレートが貼って有る。いわわく「優秀建築物表彰状」なのだが。とてもあの庁舎は陸別町の文化にマッチしてるとは思えない。それを、大臣踊り真っ最中の五十嵐が建設大臣の名の元に表彰したのがプレートとして埋め込まれてるので、検証したい人は陸別町役場の玄関(それも外に貼られてる)を見ると良い。
長老の名誉職では無くて仕事をする国務大臣。その仕事を監視する市民って構造を作らなくては税金の無駄使いに終始する。小泉首相が「自民党の芸者になっても」(超、意訳)長期政権でありたいってのは解らないでも無い。ただ、地方自治で実現してる民主主義を運営するための基本の基本が今、国政には欠けているのだ。だから、「密室政治」と呼ばれているのだ。そして、そちらがわの責任の「説明責任」もないがしろにされてる。
いいさ、首相踊りと大臣踊りを続けるが良い。もう、小泉政権に国民は責任を持たないのだから、好きにしたら良い。国民が政治に責任を持たない政治ってのは惨めな物だ、それが解る感性が政治家に無いのだから。我々は今一度、市民の視点で選挙に臨まなくてはいけない。