「有事」って言葉で本質を見え難くする政治
「有事」とは何かの定義が不明確
官僚に政治家が振り回されていると思うのは「個人情報保護法」、「有事立法」と言葉がイミフメイに使われていることだろう。言葉の用法がすでに「国会訛」なのだから国民にその本質は伝わらない。「伝わらなくて良いのだ」って姿勢が官僚側に有るからこの用語を使うのだが、それに従う政治家も政治家だと言いたい。
「個人情報保護法」については本質は『プライバシーの権利制限法』なのだ。公共の利益のためには個人のプライバシーは「ある程度」侵害されても良いって社会ルールを作ろうってのが法律の主旨なのだ。その本質を巧妙に隠す官僚主導の法律作成に立法府の国会議員が賛成するのは「不勉強」でしか無い。解ってないのだ、所詮「陣笠議員」ではその程度だろう。
「有事立法」についてはもっと生臭い。「日本有事の場合」と表記しているが、憲法解釈に則れば「国家が侵略された場合」を想定しているのだ。国家が侵略する場面は現在の憲法では認められないのだから。だとしたら「日本侵略対抗法」と分かりやすい表記にすべきなのだが、誰が日本を侵略するのかの定義無くて法律を作れないので「有事」なのだ。
でも考えてみると国家の行政が行う施策は「外交と防衛」である。後は地方自治に任せれば良いのだ。だとしたら、今審議している「有事」は外交と直結しているのだから、外交方針として明記し、その後「外交有事法」と本質を明記すべきなのだ。
「有事」=「日本に何か有ったら」=「官僚支配は日本の有事なのだ」って解釈が成り立つ。それくらい「有事」って言葉は曖昧模糊としているのだ。
自民党政治を背負った国策って「アホ」
非核三原則ってのが有る。佐藤栄作首相時代の政府答弁の「核を持たず、作らず、持ち込まず」なのだが、正直言って原発が稼働してる日本で「核を作らず」は絵空事なのだ。中世の錬金術師も驚くような核分裂による新しい核は原子力発電所で日々作られてるのだ。日本の原子力発電所でははウラン235を中性子で割り、新たな核物質を作っているのだ。原子力発電所の燃料棒を最終処理してプルトニュウム239をせっせと生み出してるのだ。これが「核を作らず」なのか僕は解釈の相違だと思うが、基本的に原子力発電所の原子炉では新たな核を作っているのだって科学的認識が政治家に無い。だから我々は非核三原則が守られてると思っているのだが、これを一歩譲って「非核」=非核兵器」と理解するには「非核兵器三原則」と言葉を正しく使わなくてはいけない。だが今でも「非核三原則」なんて答弁を繰り返している。
ここで考えてしまうのだけれど、自民党政権って過去の自民党の発言に縛られて何も出来ない政党になったのではないだろうか。先の「非核三原則」も論理的に破綻している現状を認めては過去に嘘を吐いたことになる。だから認めない。
「有事立法」って言葉も同じだ。戦争を放棄したのだから戦争に巻き込まれる事はないって国際的には訳の解らない論理で日本は官僚に運営されていたのだ。その結果「すません、戦争の事も有りなんです」みたいに急遽「有事立法」が出てきたのだ。考えてみると、政治家が次回の当選で頭が一杯なのと同じように官僚は楽な仕事作りに一生懸命だったのだろう。で「有事法制」が国民の税金で喰ってる奴らの仕事から失せてしまってる。本来の仕事をしていなかった証拠が今になって「有事立法」でガタガタする原因なのだ。
もっと厳しい言い方をすれば自衛隊を作った時に議論すべき議題を40年も先送りして来たのだ。正直言ってそれは40年前の人々に責任を取ってもらいたい。原子力発電も同じなのだが先人の残した負の財産を支払わなければならないのが今の「有事立法」でも有るのだ。
国家のレーゾンデートル
ここまで話しを広げるのはどうかと思うのだけれど、アジアの特に極東について言えば北朝鮮は何を考えてるか良く解らない国家だ。その国家が日本国存続の鍵を握っているとは思わない。ただ「馬鹿な外交が無ければ」ってコメントが付くが。
小泉総理大臣てのは「どっち目線」か良く解らない。国民に向いているのか自分のパフォーマンスに向いているのか。だいたい覚え書きに調印したのならその履行を迫るのは当たり前だが、核保有を宣言しても脳天気な発言しかしていない。日朝首脳会談の覚え書きに調印したのは小泉純一郎なのだ、にも係わらずそこで締結した約束ごとが守られてない事実を前に他人事なのはなんなのだ。「外務省に言われてサインした」とでも抗弁するのか。それをまた突っ込まない野党は何なのだ。国会の使命は外交と防衛なのだ。その外交と防衛を勉強せずに政治スキャンダルばかりやってるから駄目なのだ。
北朝鮮に対して日本はどのような外交関係を構築するのかがまったく見えない。覚え書きに嘘が有ったのだから心外であるってコメントすら小泉から出ない。あいかわらずのヘラヘラ笑いのお立ち会見しか国民に見えない。
何度も言うが、小泉首相の廊下でチョイ発言は止めろ。雑談しか出来ない首相なのだってイメージを作っている。事実雑談しか出来ない首相なのかもしれないが。
国民にメッセージを発するのがリーダだろう。テレビ会見を行え、そして自らの考えを国民に説明しろ、それが改革の第一歩なのだ。しかし小泉純一郎のやってる事は吉本興行の人気商売の域を出ない。人気商売だったら人気無いのだから即刻辞めろ。
議員内閣制でこんな奴を党首で出す自民党はどうしようも無い。そこに今の自民党の最大の弱点が有るのだ。それに乗った公明党、新保守も同じように崩壊する自民党に乗ったのだから同じ運命を辿る。
まさに時代は明治維新に近いのだが、日本人の感覚として「黒船」が来ないと改革だと気付かない。恐いのは一度トリガーを引くと爆発的に広がる国民性だ。政治がスキャンダルで崩壊するのもまさにこれに起因する。
「有事」は自己崩壊につながらないか
専守防衛ってのは「やられたらやりかえす」ってことに集約される。そもそも「やられたら」って想定が無かったことに政治の責任を追求したいのだが、ま、それは立法府がアホやからどうにもならんってことなのだろう。
「やられそうならやりかえす」って有事立法は若干違うのではないかと思う。つまり、日本には自衛権しか無いのだって考え方に立脚すれば「やられたら、やりかえす」しか無いのだ。それが消極的かどうかの議論では無くて、国民が外国の手で死亡したら国家として守る(実は、死んでるのだけれど)ってことだ。つまり、被害を受けなくては報復しないって事が今までの考え方だったのだ。
例えば原子力発電所爆破のテロ行為意図に対して法律的に対応出来ない。原子力発電所が爆発して放射能物資が飛び交ってそれで数万人が死亡して、で、有事なのだ。そのために国民の基本的人権は集団的の前に無視される。たしかに正当防衛的自衛権ならそうなるが、国民の声明財産を守るのが国の役割とすれば、先制的正当防衛権も法律論として議論する必要がある。
「ミサイルが発射されそうになったら」みたいなあいまいな表現ではなく、「自国に危害が及ぶと判断した時には」みたいな断固たる姿勢を裏付ける法律(国際法も含めて)定義をしておくべきだろう。
旧来の兵法では、敵前上陸の場合、「攻めるに3倍」の兵力差が必要とされた。つまり、専守防衛なら想定される上陸兵力の1/3を上限として備えると良いことになる。しかし、ミサイルで核攻撃が可能な現代戦では守るってのは至難の業だ。
結局、自国に被害が(その程度は全滅も含むのだが)及ばないと守れないってのは論理矛盾を含む国の「国民の生命と財産を守る」方策でしか無いのだ。