最近の国会議員の暴言の数々

昔の、安倍晋太郎や渡辺美智雄
 彼らの発言は「暴言」と言うよりも「失言」の範疇だろう。つい本音が出たってあたりの愛嬌があった。昨今の政治家の発言は攻撃的で暴力的でまさに「暴言」と言っても良いだろう。ま、頭悪いんじゃないかって「暴論」も混ざっているが。
 先の鴻池発言に民主党は大臣辞任の申し入れを行ったそうな。ま、なれ合い政治の極みと言うか、及び腰で竹中大臣問責」を出したのと同じで、行動すれば良い、結果は求めないって野党体質が民主党にも浸透してきた結果なのか。鴻池氏は続いて小6監禁事件では「どっちが加害者か解らないと」発言してこれは議長に撤回を求められ撤回したそうだ。
 民主党も本当に「鴻池の首が欲しい」のならもっと調査力を発揮して鴻池氏のダーティな部分にメスを入れ暴き出せば「首は取れる」。がしかし、口先だけの抗議でお茶を濁すなら、やらないほうがまし。
 かの田中角栄を逮捕にまで導いたのは国会では無く、立花隆の「田中角栄研究」が発端なのだ。今までの国会に浄化機能は無い、だから手法を替えなくては駄目なのだ。
 鴻池氏個人攻撃をするつもりは無い。最近の国会議員の発言がユーモアとウイットに飛んだものにはほど遠く暴力的なのが気にかかるのだ。
かなり前に書いたが現官房長官の福田康夫氏の会見を見ていると妙にうすら笑いを浮かべて記者達を小馬鹿にした様子がそのまま画面を通して国民に伝わってくる。アメリカのライス報道官やパウエル国務長官を見ていると「このカメラの向こうには国民が居る」ってことを強力に意識し、説得力有る発言に気を配っている様子が伝わってくる。この違いは「国民の支持を失っては政治は出来ない」って意識の違いだろう。福田氏なんか親からもらった地盤とカバンと看板が有れば、国民なんか居なくても政治家をやっていけると勘違いしているのだ。

暴力的では説得は出来ない
 野党の菅直人氏がその典型なのだが、暴言で相手を叩きつぶすことが使命だと勘違いしている。日曜日の朝の政治番組を見てると、菅直人氏は番組でバトルを繰り広げて自らの正当性をアピールしようとしている。このために他人の発言に割って入って視聴者ははなはだ迷惑する。ただし、菅直人氏は自己満足してスタジオを後にするのだろう。
 また、この菅直人氏の挑発に乗って吠え合う議員にもやれやれな奴と思ってしまう。互いの自己満足のためにテレビスタジオで噛み合いしているのを見せられるのは視聴者にはたまったものでは無い。
 テレビの機能を良く知ってると思われるのは、田中康夫長野県知事とか自由党の藤井幹事長なんかだろう。得々と説得するように話を進める。決して暴力的発言で相手を威圧しようとはしない。
 実は書きたかったのは個人の資質の問題では無くて、政治が暴力的になっている現状を憂いているのだ。議論をしないで罵り合いばかりやっていては国民にはさっぱり政治が見えないのだ。で、見えない政治に興味も持てないから政治離れが進むいのだ。正確にはプレイヤーである政治家の問題で、おきている現象も「政治家離れ」なのだが。

小泉純一郎首相は一言会見を辞めよ
 首相官邸でぶら下がりの記者に感想を聞かれて一言で答える。「痛みに耐えてよく頑張った、感動した」ってキャッチコピーで全てが語れる訳ではないのだ。
しかも、その会話内容が記者との個人的会話になっている。記者の後ろにいる国民が見えてないのだ。前にも書いたが首相公選制の検討はどうなったのか、せめて国民に総理大臣が直接語りかける場をもっと増やしたらどうだ。月1回の録音をラジオで流すのでは無く、生出演で国民に経緯を語ってはどうなのか。
 イラク攻撃を支持するのも詭弁で国連決議を持ってくるよりは「誰だって戦争には反対だ。でも、ここで戦争で決着を付けないと、人類の子孫に災いがおよぶ。そのアメリカの決断を私は支持しようと思う」と言えば、国会であのてこの手で攻めてくる民主党に詭弁を労さなくても良いのだ。
 思いだされるのはアメリカのアフガン攻撃の基地としてパキスタンに協力要請がなされた時、パキスタンのムシャラフ大統領はテレビで国民に基地提供を話した。その顔は『テロ側かアメリカ側かと脅されたら、アメリカ側と言わざるを得ない』って心情を明らかにしていた。これで国内のタリバーン支援組織が手が出せなくなったのだ。
 日本では内閣制の元、広報は官房長官が務めるが、この福田赳夫の息子の出来が悪い。小泉首相は親父が政治家の頃のペイペイの平議員って認識のままだ。しかも、広報姿勢に真摯さが感じられない。
そこへ年内衆議院解散も有るかって事態になって政治家の先生達は忙しい、で喧嘩腰になるのだろう。そして頭の悪い政治家から暴言でボロを出す。

品位のない「暴言」を一覧表にして掲示
 これもまた政治番記者と政治家のなれ合いで、妙なことを書いて取材拒否に合ってはたまらないので適当な記事でお茶を濁す。言葉と言うのは発した人の品位が解る。テレビの怖さはそれを伝えることが出来る点だ、活字にはその機能は無い。選挙の時にテレビの政見放送を見ると所属の党が顔つきから解るって経験は誰でもするだろう。つまり、テレビでは顔に出ている政党色を読みとる事が出来るのだ。
 品位が無いなと思うのは例えば細田博之IT担当相が手作り爆弾を作った奴がインターネットから製法を知ったとの事象に関して「不適当なインターネットサイトを取りしますべきだ。出来ないなら出会い系サイト規制のような法律をる」と発言している事など。自由民主党が自由を規制して取り除けば民主党になってしまうのだ。自由を規制する法律に正当性は無い。自己責任社会をいかにつくるかに頭を働かせてもらいたい。これも感情論のはき違え発言だろう。
 妙な事件が多発しているが、我々はその奇異性に振り回されずに「間違いと基地街は何処にでも居る」だから自己を守ることを他人に依頼するのでは無く、自らを自らの力で守らなければならないのだってことを肝に銘じるべきだろう。
そして、これの「自ら」を「日本」に置き換えても同じなのだ。基地街をテロリストと置き換えても良いだろう。1億分の1の事を規制するために数百万の自由を奪ってはならないのだ。
そして、馬鹿な事をすれば馬鹿にされる。「暴言」を吐けば馬鹿にされる。罪を犯せば罰せられる(少年法による保護ってのは近視眼的にはそうだが、大局的に見れば罰せられるのだ)。その基本を外さないことだ。

2003.07.18 Mint