政党政治が官僚支配を許した元凶

民主主義は数の論理と考えた日本の政治
 今の65歳以下の人は戦後の教育を受けている。いわゆる昭和2桁以降に生まれた世代は義務教育制度の下の教育を受けているのだ。そもそも就学年齢が7歳頃から始まる義務教育は人間の社会性形成に多大な影響を与える。そのために教育が重視されなければならない。が、国家が介入してはいけないって今の憲法下では地方自治の教育委員会って組織で教育を考えることになる。この組織の形骸化と責任追及は別な機会にするが、基本的に膨大な税金を無駄な義務教育に投じた責任は追及されなければならない。それは文部科学省であり、歴代の総理大臣の責任なのだ。
 今回は、その戦後民主主義教育の中で「議決」が多数決で行われるのが民主主義と勘違いした教育の現場の話をしたい。民主主義は多数決では無い。会議は多数決で議決する「運営ルール」かもしれないが、民主主義には多数決を容認する考え方すら無いことを解ってもらいだい。
 これこそが戦後の民主主義教育の間違いなのだ。教室で行われた学級委員会が押し付けられた形だけの民主主義方式だったのに現場の教師は疑いもせずに、この制度で生徒を教育したのだ。これは犯罪であると僕は言いたい。アドルフ・ヒットラーも選挙で選ばれたのだって事実を踏まえる歴史観も考察も無いのが戦後の「民主主義的な」学校の「お遊び制度」なのだ。そして、その制度で育った人間が65歳以下の日本の過半数を占めているのが現状だ。

多数決は最後の苦渋の方針決定なのだ
 小沢一郎氏が拘るのが「政治は数の論理だ。少数の声は国政に反映されない」って教条的な意識だ。これは方法論として理解できるが、民主主義の基本は「数を集めたら天下」ってことと違うだろう。僕は「反対意見でも抹殺(文字どおり殺されない)されない土壌」と民主主義を考えている。だから、多数決が民主主義だなんて全然思っていない。
 現在の65歳以下の人の多くは、学業の中で意味も無いホームルームってカリキュラム(これって、ネーミングしたの誰だ!)で議決を求められて手を挙げたこともあると思う。議決がエンディングで、ある意味、ダラダラしたホームルームが終わるならと思った人も多いだろう。
 繰り返しになるが、僕は小学校の4年生の時に「給食を残す人が多いのでどうしましょう」って当時のクラス担任が仕掛けたホームルームに出会った。僕の意見は「給食をおいしくすれば残す人が減る」って意見なのだが、当時の担任教師(女性でした)が逆ギレして「そんな意見じゃなくて、もっと考えなさい」って、僕は『もっと考えろって言うなら自分で提案するのが筋だろう』(あ、小学校でこの表現を感じたのでは無くて、今、振り返って感じたのです)と思ったのです。
 で、学級委員が「どうしたら良いのかの採決」で選択肢を黒板に書いて投票させて「残したら死刑」みたいな結論になったですよ。笑うと言うより情けない結論だったのだが。
 これと同じ事を国会でやるのが65歳以下のトラウマとしか思えないのだ。この部分に限って言えば「確信犯」の共産党は見上げたものだと思うのだが。

三権分立無き制度を何時まで続けるの?
 戦後政治の問題を自分の問題と捉える力量が最近の政治家には無いようだ。
国家としての日本を考える時に、未来を見据える洞察力は政治家に必須の能力であり責任なのだが、昔の自民党政治の延長線かと思われる「陣笠議員」が与野党問わず多すぎる。
 政治のよい意味のプロが居ないのだ。数を頼んで政党に安住し何も考えない行動しない国会議員が何とも多いことか。つまり、政党の数合わせだけの国会議員が多いのだ。これは国民から見たら税金の無駄使いであり、立法府の責を担わない国会の元凶なのだ。
 選挙期間中なので個人名の開示は避けるが、基本的に国会議員は「国の行く末を担う、個人事業者」であって欲しい。徒党を組んで政党政治に陥るのは現在の日本の政治制度が「純粋な三権分立」になっていない問題点そのものなのだ。行政府の長は立法府から選ばれる現在の議員内閣制度が「金属疲労」にまで来てしまったのだ。
 多数決で首相を選ぶ方式を国会議員に委ねる制度にした故に小沢一郎氏が「数の論理無くして政権を奪えない」と勘違いさせてしまったのだ。
 本質は別な所に有る。国民が直接行政府の長を選べない今の日本の制度は歪んでいるってことだ。議員内閣制度は「数の論理」でおかしいのだ、多数決の上に多数決を重ねる制度は民意からほど遠くなる。多数決の上に多数決は積んではいけないのだ。多数決は最後の議決手段でその先に多数決が有ってはならないのだ。そうでなければ民意を反映できない。そんな統計的な常識が今の政治の仕組みに無いのだから、この仕組みを改めるのが先決だろう。そのために政権奪取が必要だから「数の論理」ってことでは方針が国民に伝わらない。

正論は受け入れられる土俵が民主主義
 1945年8月の敗戦以来、日本の政治は官僚主導の政策で行われ三権の中で立法は行政に侵食されて機能不全に陥っている。何故なら、立法府がだらしないのだ。立法府は行政府への働きかけばかりやって、本来の職務が行政府への働きかけになっているのだ。
 内閣総理大臣が立法府で選べれる故の歪みなのだ。その制度を利用して国政の場で数を得て来たのが自由民主党なのだ。鈴木宗男事件はまさにこの体質なのだ。立法府の国会議員が行政府に「口利き」をする。これは自衛隊の海外派遣問題よりもっと現実的な「憲法違反」なのだ。
 官僚(行政)が立法府(国会)に連なることを禁じた「三権分離」が全然出来てないのは制度が悪いのだ。だから、「三権分離」をしたければアメリカの大統領制のように行政のトップは国民が選ぶ制度を採用したほうがより民主主義なのだ。それは各地の地方自治で知事が直接選挙故の立法と行政の分離実現を見ると明らかだろう。
 「政権交代」を野党の民主党は叫んでいるが、現行の制度では「陣笠議員」を集めて内閣総理大臣を生み出すのが「政権交代」なのだ。ただ、それだけだ。
 制度を代えなくては日本の民主主義は育たない。そんな考察が出来る党首が皆無なのが今の日本の政治の不幸だ。
 一遍の正論で行政府の長が選ばれる。そんな制度を作ることが政治家の責任なのだが「我が身かわゆい」で目が眩んでいるのだ。
 投票率が低いのは、直接民主主義にほど遠い今の政治制度に有るのだってことを解っている政治家はほとんど居ない。制度、仕組みの矛盾をつく勇気は既存の制度、仕組みで選ばれた議員には出来ないのかもしれないが、それを叫ぶことが求められてるのだって国民の声を聞けるかどうか。

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2003.11.02 Mint