政治家は国政のメッセンジャーたれ
選挙ための街頭演説、当選後の使命
ローカルな話題だが札幌市では去年(2003)の市議会議員の補欠選挙が1月にもあるらしい。名前は解らないが高齢な市議の死亡と僕が投票した「高橋ひでのり」の選挙違反容疑での辞職とで2名が欠員となり選挙が行われる。
札幌市長選挙の再選挙があったので昨年は3回投票所に足を運んだ。市長市議、市長再選挙、衆議院議員選挙だ。そして、「新年選挙」と呼べば良いのか市議といえど前哨戦は始まっている。地下鉄の駅前でピンクのブレザーを着たオバハンが事前運動に熱心だ。ま、事前運動が既に選挙違反だと思うのだが。
市議になることが目標の人間と市議になって何をするかが目標の人間の違いが大切なのだが、いまの札幌市では市議になることが目標の人間しか立候補しないようだ。だから、市民に訴えるよりは地縁、血縁で票を固める選挙になっている。これは今に始まったことでは無い。
選挙を「経て」議員になるのだが、選挙で当選することが手段では無くて目的になっている輩が多すぎる。それは国政、道政、市政を問わない。だいたい、選ばれたのに議会を欠席する議員が多い。その多くは「仕事が忙しいから」で、結局引退した老人だけが議会に出席する。
地方議会なんていいかげんなのだ。そもそも機能しない地方議会を監視するオンブズマンの頭悪いと思う。不用なものを監視しても意味が無い。地方議会は機能を果たせないのなら解散すべきだ。
当選した議員の使命は政策決定の投票と政策の国民(市民)への説明なのだ。陳情に対応しているのが使命では無い。税金を俸給として受け取る理由は立法府の公僕なのだ。それを理解出来ない国会議員、道会議員、市会議員が多すぎる、と言うか全員がそうだ。国民(市民)から選ばれたのだから選んでくれた人々に情報でお返ししなくてはいけない。税金を引っ張ってお返しする時代はとうに過ぎたのだから。
数の論理は議決について言えるだけ
地方自治にも国政の政党の影響がある。これが戦後の日本の政治のネジレだと思う。国政と地方自治は明確に違う。そもそも国政と地方自治の役割分担を明確にしてこなかった戦後の政治制度のいいかげんさが、国政にたて突く知事の暗躍を許したのだ(ま、暗躍は言い過ぎだが、深刻な問題は国政と地方自治のズレを調整する機能が何処にも無い現状だろう)。
地方自治は直接選挙で選ばれる組長と同じく直接選挙で選ばれる議会議員で構成される。どちらも住民の代表だ、だから意見が対立した時に「住民に聞く」ってフィードバック制度が機能する。
国政は議院内閣制なので行政の長たる総理大臣は選んでくれた政党にお伺いをたてる。ここに地方自治と国政の最大の仕組みの違いによるネジレが発生する。組長の支持母体は個々人の住民なのだが、総理大臣の支持母体は派閥であったり政党だったりする。
組長の説明責任と言えばニセコ町の逢坂町長を引き合いに出さなければならないだろう。ゴミ焼却炉を町内に作らなければならない時に「何処に作れば良いか考えてください」と言う。一見、責任回避のようだが実は逢坂町長にとって選ばれた土俵と一緒に考えることが民主主義制度ってポリシーなのだ。
これについては僕には若干の異論が有る。「預託された者の責任を果たせ」って事なのだが、ある意味、大統領のように直接住民から選ばれた組長は強権発動でも良いし対話路線でも良いのかもしれない。ただ議会との対立するバランス(相互研鑚とでも表現するのだろうか)が保てる背景が有るのならって条件が付く。ニセコ町は出来ているかどうかはニセコ町の人々が判断する課題で、僕は口を挟む立場に無い。
国政では「数の論理」って言葉が横行する。小沢一郎氏も使っているが本質が伝わらない自民党的な「数の論理」に聞こえる。
多数決は「決を取る」手法なのだ。それまで積み重ねた議論のある意味「打ち切り宣言」の後にある。
が、難しいのは「議論を重ねた」って認識なのだ。
街頭演説の時代なのかなぁ
ま、急に札幌市の補欠選挙に戻ってしまうのだが、街頭演説って選挙広報は何処から出てくるのか。毎日地下鉄の駅で頭下げてれば市会議員に当選するのかもしれないが、それが住民(市民)本位なのか、単に「当選したい症候群の病人」にしか僕には見えない。
先の札幌市長選挙と再選挙でも感じたのだが、情報に対する責任がいいかげんだ。当選しようが落選しようがインタネで広報したホームページを選挙ポスターの掲示板よろしくさっさと撤収する姿勢に疑問を感じる。民主党も「政権取れなかったからマニフェストはご破算だ」なんて言う意見が横行している(だいたい、菅直人がその意識では民主党に明日は無い)
自らの言葉で書く、これが組長の責務なのだ、それを実行出来てる組長は少ない。思うのだけれど選ばれる努力と選ばれた後の努力は情報公開されてないと思う。その意味で
市町村ホームページ拝見に市町村長個人のホームページを探してはリンクしている。当選後の責務を情報の面でフォローしている姿勢は素晴らしいと思う。
選挙のためにインターネットを使うのが横行している今の時代に情報とは何かを分かっている候補者は居ないってことだろう。日々地道に情報を発信していこその成績表としての選挙なのだと解っていない。だから、落選とともに破り捨てられるホームページが何と多いことか。
企業のホームページを見ても感じる。看板は道端に張ってこそ価値がある。インタネで看板出す目的が分からない。双方向ってキーワードは一方的なCMで無く、意見交換を目的に存在するメディアがインタネだってことだ、だから、双方向性を持たない看板をインタネに掲載しても企業の姿勢を問われることになる。これは市町村のホームページについても同じだ。
で、選挙に戻るが街頭演説ってどれほどの効果が有るのだろうか。本人の自己満足と支持者への禊だろう。本人はこんなに頑張っていますって、なら、冬なんだから神社で水でもかぶれば良い、通勤途中の人に向かって幼稚な心情論を叫んでも嫌悪感しか沸かない。個人のイデオロギー(と、言うか理念無き体制批判)を街頭で叫んで私は環境問題についても言いたい」、あほかぁ!! スピーカーの発電のためになんぼガソリン使っているのや。
自己満足、立候補者も支持者も、自己満足。そんな選挙がまた札幌市西区では行われる。小泉純一郎!、応援演説に来い、菅直人!、応援演説に来い。結局、江戸時代の庄屋選びレベルなんだろう、地方の補欠選挙は。
「該当者無し」の反対票を投じる制度は出来ないのか。
やっぱ今の選挙制度は何処かおかしい
代表による民主主義制度を僕は否定しない。表裏一体なのだが資本本位主義社会では江戸時代の商人と代官の癒着を反面教師として行政と資本家を分けるべきって制度の進歩がある。でも立候補する人間にバイアスが掛かると、この制度も目的を達し得ない。
既に国政においても二代目議員が多い。これは現在の選挙制度が長年続けた結果何か不都合があるのではってリトマス試験紙なのだ。で、リトマス試験紙から解ったことを誰も選挙制度の改革に生かさない。
既得権を再編成するのが改革なのだが、既得権側が死ぬまで既得権は継続される。選挙も同じだ。現行の選挙制度では市民の声が政治に反映されないって視点が現在の立法府には無い。無いと言うより無視している。
民主主義は国民主権って方針で、当然だと思う。だが、その戦略である、例えば選挙制度では世界各国バラバラで試行錯誤中ってことだろうか。何度も繰り返すようだが、僕は、三権分離は大事な方針と思うが今の日本では出来てない。これを実現するのは「首相公選制」だけだと思う。任期2年でも良いから「首相公選制」こそが日本も民主主義国家の一員だって証明だろう。今の制度では外国から見たら「総理大臣は大統領では無いのか!」って意識になると思う。
世界は大統領と議会て政治制度に流れている。日本はいつまでも庄屋さまの選んだお代官かい!。小泉純一郎はボケ老人(各地のボケ老人に失礼します)だ、菅直人がそれを上回るボケなので目立たないが、ツッコミが出来ない野党はヤレヤレなのだ。