マスコミのここが悪い

ピンキリのマスコミ
 なにをターゲットにマスコミを語るかと言うと、この場合、テレビと日刊新聞をターゲットにしたい。しかも細分化しておかねばならないのは、テレビでも明らかに「報道番組」の冠を送り手である放送局が付加しているものに限る。また、日刊新聞でも、いわゆる「社会面」に限る。
 何故なら、「報道」に名を借りて主観を普遍化して世論を代表するがごとき悪しき場面が散見されるからだ。もちろん、インターネットでこんなことを書いているのも同類ではないかとの批判もあろうが、あくまで、「こんな視点がある」ことを表明してるのであって、他人がどう感じているか受け手の問題なのが私のスタンスだ。「それで、国民が納得しますか」なんて、偽善的スタンスは、持ち合わせていない>僕はね!
 十人十色、人が存在する所に意見は人の数だけある。それを集約してまとめ上げ「典型的な代表意見」に取りまとめるのがそもそも「報道の使命」を逸脱している。
 国民から貸与されている「報道の公器としての機能」は、考える発端になるデーターの伝達である。人の考える基礎を提供するには集約したり、まとめあげたりする機能は必要ない。「ありのままの報道」が報道の原点であり、これを逸脱する所に昨今のマスコミの悪しき国民との溝が発生している
 また、言葉の扱いが乱暴である。これは、長らく世論を取りまとめてきている自負が、ひいては公正で正確な報道をゆがめてしまった悪弊だろう。ありのままを表現するには表現に利用すべき語彙に細心の注意をはらわなければならないが、その能力が送り手側から急速に失われている。「軽さ500グラム」などのキャッチコピーでしか使われない日本語を天声人語で使っても編集者がチェックできないほど、実はマスコミは主観の場になり下がっている。
 で、主観記事に見られる特徴はゾンザイな言葉選びと、金太郎飴表現である。事象は全て固有であり、報道は個々の事象を正確に伝達するためには、都度違う表現が必要になる。がしかし、金太郎飴である。試しに日曜日のTBSの関口宏の番組の「中継」を3週間ほどビデオに納め一気に見てみると解る。花畑に入りて花を見ず、雪原に入りて雪を見ず、そんなキャスターが出てくる。

考えるのは読者の仕事
 久米宏の問題点は思考により得られる結論を、報道側が家庭に送りつけること。先のマスコミに許される国民から貸与されている伝える機能を逸脱している。
 田原総一朗の立派な所は、考える糸口は解きほぐすが、じゃぁ、どうするのが良いのかは複数の意見を列記するにとどめるところ。
 事態は解った、あとは俺が(私が)考える。これが国民が報道に望む姿勢であり、報道の公明正大中立の姿勢を担保するのだが、自ら壊している悪しきマスコミ報道が多い。
 テレビが全盛になりつつある時代に、引退記者会見で故佐藤栄作総理大臣は「新聞は公正じゃないから帰ってくれ。テレビだけ前に来てくれ」と不満をぶつけたが、これも主観で書く新聞よりはテレビのほうが本意が伝わると思ったから。これに対し「新聞への侮辱」ととらえた記者連中も自己を省みる自己責任能力が皆無だったのではないか
 時代が変わってテレビですら主観の塊になっている。いまさら述べることも無いが、スポンサーあっての事業に「報道」を求める側が悪いのかもしれない
 「テレビは100%娯楽である」と割り切る選択肢も有ると思う。がしかし、マスコミの悲劇はこれを認めないで「報道番組」を作り、実は穴だらけであったことが発覚した事だろう。活字は「考える糸口」としての機能は時間と伴に垂れ流されるテレビより数段上の媒体特性を持っている。残念ながらテレビには牛の反芻のような再現性が無いので、インパクトが強い編集に陥りやすい
 ところが、テレビも考える糸口として捨てがたい利用方法がある。それは多くの人の生の声を聞くことができる機能だ。日曜日7:30からの竹村健一の番組の大きな売りは、毎回ゲストで登場する政治家の生の声もさることながら、多彩なゲストの生の声を聞ける点である。三国連太郎が出演して「役者なんて、川原乞食ですから」って、放送禁止用語を吹聴するなってのは、あの番組でしか無い。黒岩さんが報道部長のフニャケタ露木氏に替わったのが悔やまれる。黒岩さんには「伴に考える姿勢」があった。竹村さんと意見が折り合わず、白髪が増えていったのを視聴者は見逃さない(笑い)

客観を忘れたマスコミに明日は無い
 世論を代表するのは、公器の大規模なマスメディアで無くて良い。論を展開するには、今のマスコミは大き過ぎる。ミニコミこそが論を張れば良い。マスコミはミニコミのインターネットであるべき。
 マスコミが「報道」の場で発揮すべきは「取材力」である。取材に手を抜いて、ヒョーロン気取りでは国民の信託は得られない。記者会見で「その、読んでいる紙をコピーして配ってくれ」って記者が居るようでは語るに堕ちる。
 読者と一緒にワイワイやるのが報道の使命では無い。読者にデータを運ぶのが報道の使命である。要らぬ辛口磨いている間に、真実に一歩でも近づくべきで、取材こそ基本を忘れたジャーナリストは、酒場で飲んだくれてグチをこぼしている酔っぱらいが拡声器を持っているのとなんら変わりが無い。

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1997.04.16 Mint