朝日新聞は公器の地位を失った
これは1読者の声
最初にお断りしておきます。私は25年に及ぶ朝日新聞の読者であり、この文章は読者(愛読者とは表記しない)の1声であることを。なにも観念的に朝日新聞を責めるものでなく、日常接している紙面および朝日系列のマスコミ各社の報道を顧客として受け入れながら、感じていることを表明しているものであることを。
少なくとも、読者の(顧客の、広義にマーケットの)声を「非難」と解釈される事が、朝日グループに無いことを(それすら、最近は疑っている)願う。
とみに客観性が失われ、個人に名を借りて主観的情報操作を企んでいるふしが散見される。我々は久米宏個人の見解に留まっていないことを長年の番組経緯から知っている。昨日、今日始まった番組では無いだろう。
久米宏が朝日新聞的ではなく、朝日新聞を代表するキャラクターとして久米宏傀儡キャスターを仕立て上げたのが朝日新聞である。久米宏はその演者でしか無い。
この番組では客観的報道よりも「視聴者に分かりやすい解説」に名を借りて思考の押しつけ、情報操作が散見される。もはや、報道番組ではなく、バラエティであるにも関わらず、編集員を送り込んでいる姿勢が客観的報道を旨とする報道機関としての良識を問われている。
国民の志向の歴史的変化
番組で接する報道に加えて紙面で接する報道に変化の兆しが見えてきたのは「K・Y珊瑚損傷事件」の頃からであるから、既に10余年を過ぎようとしている。戦争中の新聞各社の強制的統一、それ以前に2大新聞社としての、朝日、毎日の「焼け跡太り」、報道機関の歴史は時代の歴史であるが、この間、必ずしも報道機関の企業としての理念は不変なものでは無いことを歴史が示している。
いみじくも「勝ったと書かなければ部数が増えない」が当時の記者の本音であった事の反省を「軍部が悪い」、「国民総懺悔」で乗り切ったのではないか。
逸れた公器、朝日、読売
ついでに潰れた公器毎日新聞とも付け加えておこうか。国民の志
向も戦後50年継続して、同じ平均値ではない。不思議なのは、もし、基点で
ある新聞社と国民の志向に、新聞社は不動で国民が変わったのなら、新聞社は
左右どちらかに動いて見えるはずである。がしかし、上記の2社を見るにつけ
実は国民の志向の方向によらず、独自に勝手に幅広げて拡散してきたのではな
いかと感じる。
一般に朝日新聞が左よりに見えるのは、国民の志向が右になったものではな
く、勝手に逸れて行ったもんだろう。読売についても同様である。
国民の「情」に媚び真実の報道を忘れ、自己の部数拡張に邁進したがため、国
民に正しい情報を伝達する機能を失い、やがて国の道を誤らせた責任を真摯に
反省し、そのためには、情報操作と揶揄される考え方の押しつけを辞め、真実
の伝達の原点に今一度戻らなければ朝日新聞社の再生は無い。