北海道開発局は北海道を「開発」せよ
都会の利便性、田舎の利便性
明治維新からこのかた、全国から集めた金は、国に集められここから、地方に分配される制度が延々と続けられてきた。この仕組みを振り返ってみると、特徴的な事が目に付く。それは、集められた金が、ハードとしての箱物として分配されたり、教育に再投資されてきた事実。
日本の何処に住んでいても平等に保証されている物は、義務教育を受ける機会均等のみでは無いだろうか。他は、多かれ少なかれ地域格差が派生している。例えば、都会の公共交通機関は利用者の多寡により、本数も多く、これが利便性の向上につながり、ますます利用者が増える。かたや、地方では時刻表を意識し、公共交通機関に時間を合わせて利用しなければならない。また、本数が少なく、ひとたび急用が派生した時は、公共交通機関は使えない。結局、自家用車が生活必需品となる。ますます、公共交通機関は本数が減り、利便性は失われていく。
地方中核都市である北海道の札幌市に住む者として、この論議に一石を投じておきたい。それは、現在の市町村区は住民の生活圏に比べて狭く、一概に都市住民、地方住民と区分け出来ない点に注目してもらいたい。
休日には都会住民の地方施設の利用が盛んである。町村の区域を遥かに超えて住民は移動する。その地方都市は都会並みの利便性で応えなければ都市の所得を落としてもらえない。
需要と供給の原則によらず、都市のインフラ整備は都市型労働生産に高効率をもたらす。都市と地方の所得の格差は歴然である。地方が都市の高所得の特に可処分所得の吸収に努力するのは当然の戦略であろう。そのための施設整備に都市住民の税が使われるとすれば、これは都市住民の二重負担である。
で、現時では二重負担なのである。
国土保全は人の手で
国土の均衡有る発展はともかくとして、均衡有る人口の分布は金の流れてとは別に、政策として採択するのが重要である。国土全てが都市空間になったら、それはすさまじい環境破壊であり、人間以外の生物の生存を許さない自然界には過酷な環境でもあろう。そもそも、都会の生活は周辺地方の協力によってかろうじて保たれているのであって、昨今の産業廃棄物処理への地方の反対運動がどれだけ都市住民に深刻か解ると思う。身近な例では沖縄に代表されるように、米軍訓練地の移転問題で候補に上がる地方が有るだけ、都会は安心なのではないか。国土全体がギチギチの都市空間であれば、実弾射撃訓練なんかを移転する余地すらないのだから。
昔北海道は屯田兵による北の防人兼農業開発者によって開発が進められた。わずか150年前まではどこをとっても原生林に覆われた原野であった。この土地の開発を誰も「自然破壊」とは呼ばなかった。木が切られ、遠くが見えるようになることは喜びであった。
今この北海道に、重点的に公共事業投資を行う是非が問われているが、そこに生活し、人間に合った自然を保全していると自負する我々にとって、保全すべき(開発すべきではない)余地はまだまだ有ると思う。先の豊浜トンネル崩落事故にあるように、道路が出来てもこれは危険と背中合わせの物が多い。北海道の道路地図を詳細に見ると「降雨量xxmm以上通行止め」の注釈が目に付く。つまり、降雨による危険地帯を道路が走っている訳だ。
利便と不便のコストパフォーマンス
先の公共交通機関の不備は、もはや生存権すら認めないくらいにひどい。1時間に1本ならまだ良いほうで、2時間に1本の公共交通機関が公共の便に適うのか、なはだ疑問である。にもかかわらずそこに住む人にとって、それしか無い不便さは宿命みたいなものである。
観光客の表面だけを見る目にすら映るのが、沿道に点在する離農跡であろう。人間の生活の限界を超えた不便さと、寒冷な土地での農業生産の戦いに敗れた人々の草の跡である。また、たとえ成功したとしても戦後50年、代替わりしてまで継承する価値を感じ得なかった跡地である。
北海道の難しさは過疎と過密のバランスの崩れである。多極分散型になっていない。札幌170万人以外に50万人都市が無い。地方都市は中核都市と呼ぶには規模が小さく、また、衛星都市的な周辺都市も持たない。このような地域状況を考慮すれば、北海道を広域通信網の一大実験場として整備する下地はあると思う。廃止になったjrの替わりに走っているバスの利用者高校生である。均等な教育ではなく、衛星通信を利用した特化した教育でも良いではないか。都会のコピーではなく、北海道のニーズに合った情報システム。ま、北海道開発局解体の前に、土建屋依存経済を変革するのが、これまた開発局の仕事ではないだろうか。