盲腸線かな..留辺蘂町

コース概要
 今年の天気は「週末グツツキ型」とでも呼べば良いのだろうか。週末に目的地の天候が悪い。出来れば晴れ上がった青空の下を走りたいのだがせめて雨は勘弁してもらいたい。そのため6月はほとんで出かけることが出来なかった。2回ほど札幌トレーニングで体力維持に務めた程度だ。
 残っている市町村の中でオホーツク地域を今年は重点的に攻略しておこうと考えてる。効率良く回るために地図を調べているのだがとうも石北峠のお膝元の留辺蘂(るべしべ)町につながるコースが見いだせない。
そもそも北見市につながったのは池田町から伸びる「ふるさと銀河線」を伝ってのもので、北見市を拠点に東方面を斜里町までたどり着いた。北見市の西に位置する留辺蘂町。本来なら上川町から石北峠を越えてたどり着く町なのだが、十勝、北見ルート開発によってこの峠は完全にパスする結果になっている。だから、峠の麓の町には北見市から単独行で訪れるしか無い。ピストン・コース(行って戻る)になるが、何時かクリアしておかなければならない。
 当日は台風の接近によって天気予報では北見地方は午後から雨。出かけるかどうかは50%くらいの確率だなと思いながら4時に起きてインタネで気象情報を検索すると当初の天気予報は12時間くらい遅れているらしい。僕が良く使うのはレーダーアメダスの雨量と日照。雨量では函館が降り始めた程度、日照は午前4時では解らないけれど5時に4時30分のデータが参照出来るようになるとオホーツクの各所で日照100%が打ち出せれている。
 北見市、留辺蘂町往復40kmに出発を決意する。

輪行概要
 札幌市から国道275号線を北上、雨竜町から道々47、57を経てか神居古たんに合流するのだが、道を間違って時間をロスする。旭川市ではバイパスの旭川新道を通り国道39号線を道の駅当麻で一服。ここから愛別町、上川町を経て、一瞬国道273号線へ左折して北見峠に向かおうと思ったのだけれど、T字路を直進して標高1050mの石北峠を越えて目的地である留辺蘂町を通り抜け北見市に向かう。
 実は大学は北見工大だったので北見の地理に詳しいかと言えば、借りていたアパートの「屯田西」から一歩も西に向かったことが無い。大学は野付牛(のっけうし)にあるので、行きは「白陽高校行き」のバスで、帰りは「三輪(みわ)町行き」のバスを利用していた。実は留辺蘂町から北見市に入ると相内(あいのない)から始まり12km程で屯田西に行き着くらしい(今回知った)。
 前回利用した「野付牛公園駐車場」は北見市の北東になるので市内走行を減らすために車の駐車スペースを捜して相内近辺をうろうろする。ここで予想以上に時間を浪費してしまった。
 結局、相内の農業基盤整備とかの記念碑(と言うか、意味無いアリバイ工作施設(でも、ありがたかった))の5台程のスペースの駐車場を見つけここに車を止めて出発準備をする。普通なら5時間ちょっとの道を6時間弱かかってしまった。
農業基盤整備施設
 農水省の(あ、今はなんだっけ)の施策では何でも包含されるのがこの「農業基盤整備」なのだ。前に書いたが「農業者トレーニング・センター」なんてアスレチック・ジムも有りなのだ。後述するが、この恩恵で出来た施設がゴロゴロしてるのが北海道の現状かも知れない。でも、ITだなんだって騒いでいる世相を感じながらやはり北海道の基幹産業は農業なのだ(その取りまきの公共事業では無く)って視点で産業策を考えないと何時までも北海道は農水省の隷属国なのだってことをこの駐車場から感じたのだ。
 ま、それはそれとして、ここから国道39号線に向かって下り最初はリンクが切れないように北見市の屯田町に向かう。ふるさと銀河線を辿ってこの地点で国道39号線に合流したのだった。
 途中、北見市は西に向かって伸びているなぁと思う。学生時代は屯田西町のアパートから柏陽高校行きのバスで市中心部を越えて大学へ、大学からは三輪町行きのバスでアパートへと通っていたのだ。市街地の西部の相内(あいのない)は北見市内から見たら郊外だったのだ。その郊外をひたすら中心部に向かう。昔はまったく何も無かったのだが、なんと巨大なタワーが、これが温泉らしい。昔は三輪町まで間違って乗り越して、夜道をトボトボと歩いたのが嘘のようだ。パチンコ屋やスーパーがこの西部地区に広がっている。
 屯田西の交差点で折り返し。去年来たときには学生時代何時も買い出ししていたJAのスーパーが閉鎖していたのだが、跡地はコンビニになっている。昔のアパート「日の出荘」(なんか有名人を輩出しても良い名前なんだが)の大家さんの「ささき」さんは、手広く理容院を拡張している。昔の僕の部屋の場所も理容院のビルの一角になってしまったが、窓から見えた納屋は30年前と同じに見えた。まさかねぇ、たぶん同じ納屋を隣接した家の人が建てたのだろう。近くの駐車場の看板にHBAてのが有った。大学を卒業して最初に就職した会社の北見支店がここの近くに有るのだろう。時間が30年巻き戻された感覚を味わう。
さて、リンクはつながった。ここからUターンして留辺蘂町を目指す。

改めて留辺蘂町に向けて出発
 国道39号線を再び西に向かって走り始める。
それにしても北海道の市町村は「西に向かって伸びる」って感覚は正論なんだろうなぁと思う。帯広市しかり、士別市しかり、ただ日本海側の市町村は逆で海からの潮風を避けて東に(内陸に)伸びている。これは何故なんだろう。黒沢明が描いた映画「デルスウザーラ」のように人は西を(夕日を)目指すのだろうか。
そんな愚にも付かない事を考えながら国道39号線を走る。ほとんど平坦なのだがサイクロメータで標高を見ると徐々に高度が増えている。非常に緩やかな登り坂なのだ。出発点を過ぎてJRの線路を跨ぐ高架を越えると北見ポン温泉がある。これが良く解らないのだけれど、たぶん、留辺蘂の温根湯(おんねゆ)温泉の一番北見市よりの老舗なんだろうか。付近には「パークゴルフ場」なんかが整備されている。
考えてみると北海道は「森と水の観光地」と言われるが温泉は結構多い。「森と水と火山」ってのが北海道の特徴だろう。そもそも日本には世界の10%(個数)の活火山が集まっているのだ。そして温泉って資源を供給してくれる。
自転車で周りながら「温泉に浸かりたい」ってことを時々思うのだけれど、なんせ体育系の自転車走行なんで、さらに熱い湯に浸かるって感覚は湧かない。1泊なんてコースだと自転車で疲れた身体をいやすってことで楽しいのだろうなぁと思う。

留辺蘂町市街地
 実は曲がり角を間違えた。地図では国道39号線を進むと右折して佐呂間川に添った道々103号線があるのだけれど、ここを国道242号線、生田原(いくたはら)に向かう道と勘違いして曲がってしまう。
すぐに留辺蘂駅の看板が左を指しているので気が付く。とりあえず目的の役場を目指して左折する。ほどなく役場前に到着。お約束の写真撮影。そして役場の水道を借りて顔を洗うとともに水の補給。
ありがたい。実は当日の天候は薄曇りで気温はサイクルメーターでは27度。自転車のボトルからの水の補給以外にここまで自販器で350CCのジュースを1本。ボトルもかなり減ったので補給する。汗にまみれた顔を洗えるのが本当にうれしい。
 留辺蘂町の市街地は国道39号線を離れ開けている。飲み屋街もパチンコ店も全て国道に面していない。だから、留辺蘂って小さな町と思いがちだが、実は国道を通過する人には解らない市街地があるのだ。
 ただ、残念なのは商店街は「歯抜け」状態で、倒壊間近なんて建物が商店街に混じっている。難しい問題だけれど経営者が去った部分を補うのが「商店街組合」なんだが、ここではあまり機能していない印象を持った。組合は大局的観点から高齢退職経営者まで含めた施策を持たないと組合の機能を果たしてない。それが出来るかどうかが組合に求められる事柄なのだが、ここでは巧く機能してないようだ。
 この国道を避けて商店街って展開は十勝の芽室町に通じる。白老町もそうかな。ケースステディとして参考になる。ただ、この町にはそれを選択した意志が感じれれないのだが。

さらに新たな拠点を目指して
 役場の前で補給しながら地図を広げて考える。このまま北見市に戻っても良いのだけれど地図を見ると生田原に向かう国道242号線の起点でもあることに気が付く。それならもうちょっと足を伸ばしてみょうと役場からさらに西に進む。国道39号線に合流してほどなく国道242号線への右折箇所に出る。こから遠軽町に向かう国道242号線を進む。本当は北見峠から進みたい地域なのだけど、こちらからのルートも開発しておこうと思う。
 やはり緩やかな登りだ、地図を見ると金華(かねはな)峠を越えるルートらしい。北海道には峠の前に「チェーン着脱場」なんて駐車スペースが有るので、ここまで足を伸ばしておこうと思う。途中、金華の駅のあたりに「常紋トンネル慰霊碑」の看板を目にする。とりあえず先に進んで帰りに寄ってみよう。ほどなく左側に駐車場の案内を見つける。これをこれから先の車のデポ地点にしょう。生田原までは16km程だろうか。次回の拠点を見つけた。
ここからさっき気になっていた「常紋トンネル慰霊碑」に戻る。

常紋(じょうもん)トンネル慰霊碑
 僕にとっての「常紋トンネル」はSL最後の時代に学生でカメラを趣味にしていたので「一度冬の雪に囲まれた常紋信号所でSLを撮りたい」って思いだった。夏休み、冬休みと列車でここを通る時、何時か写真におさめたいと思っていた。
当時はJRでは無くて民営化前の日本国有鉄道(国鉄)で常紋信号所に複数の職員が常駐していたので、許可が得られれば常紋信号所で列車から降ろしてもらい、次の列車に乗るって事が可能だった。本来常紋信号所は乗客の乗降する駅では無かったのだ。だが、結構許可を得ないで車掌に話して降ろしてもらった写真マニアが多かったようだ。
この常紋トンネルが開拓のためのタコ部屋の象徴だったってのは卒業直前の頃に知った。その頃に特急で帰省する時に窓に写った人影が気になって調べたからだ。本当に短いトンネルなのだが通過する時に特急の窓からトンネルの壁に写った人影を見たのだ。それが常紋トンネルを調べたきっかけだったし、その時代の後に太平洋戦争の頃日本の対アジア政策を知るきっかけにもなった。
 その慰霊碑に巡り会ってさっそく階段を登って慰霊碑に向かった。僕が調べた昭和45年当時の文献では当時の実態を隠すような記事が多かった。「実態はたいへん苦労をしたようだ」みたいな記述が多かった。実態はどうだったのか、この階段を登りながら30年も前の自分に戻っていくようだった。それは、さっきの北見市の屯田西の交差点で感じたものと同じだった。
 階段を登ると平地だった、ここは金華(かねはな)小学校の跡地らしい、そこに慰霊碑が建立されたのは昭和55年(1980年)。なんと、常紋トンネル着工が大正元年だから実に70年を経て慰霊碑が建立されたことになる。ここの碑文には「200名以上の犠牲」と書いて有る。大して長くない(500m程度か)このトンネルを掘るためにそんなに多くの人々が犠牲になったんだ。
 慰霊碑の前の花を生ける容器と線香をあげる鉢が転がっていた。付近に北狐の糞が多いのでたぶん狐か風で倒れたのだろう。容器を慰霊碑の前に立てて並べて、亡くなった人々よりも、この慰霊碑を建てた人々の執念に敬意を表した。「常紋トンネル」を歴史に残して起きたいって執念、情念をこの碑の前に建つと感じる。
 小学校の跡地なためか水道がここまで伸びている。長い給水線のためか飲める感じはしなかったが顔を洗わせてもらう。ここは高台だし平地なので春先の花見やキャンプに向いているかもしれない。何よりも北海道をテントを積んで旅するサイクリストには水が有るので便利なキャンプ場になるかもしれない。
階段を下ってJRの金華駅に向かう。道路から100m程の所だ。ここの集落の世帯数は20くらいだろうか。が、途中の家が目いっぱい犬を飼っている。この犬がキャンキャン吠える。ま、自転車が珍しいのだろうが、繋いでいる鎖を切りそうな勢いの犬も居る。そうそうに国道に戻り金華駅を後にする。まったく、犬嫌いには理解できない。あんなに犬を飼うのは何なのだ。

オホーツク開拓の苦難の歴史に触れる旅になるのかな
 ここからオホーツクに進もうと思う。常紋トンネルは北見で学生時代を過ごした僕の原点でも有る。ここからオホーツク地方の市町村訪問の旅を開始しようと思う。次回は先ほど見つけた駐車場から金華峠を目指すコースになるかもしれない。秋までには遠軽町のがんぼう岩頂上からの360度のパノラマ写真を公開できるかもしれない。
 オホーツクの開拓の歴史はまだまだ奥深いのかもしれない。各地の「郷土資料館」で勉強する事柄は多いのかもしれない。
 戻りのコースはピストン・コースなので来たときと同じ。でも、オホーツクの歴史の扉に触れた満足感で駐車場所に戻った。
2002.07.06 (C)Mint 本日の走行 62.0km 所要時間 2:53:20

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