オホーツク沿岸....枝幸町
コース概要
前回の歌登町から訪問候補が増えた。中頓別町や枝幸町に進む格好のデポ地点が見つかったのだ。先週に続いてここ歌登町をデポ地点にオホーツク海の枝幸町に足を伸ばすことにする。
枝幸町は北見枝幸と表記されるように、北海道では道南の渡島半島に有る江差町と区別されている。一方の江差町は「江差追分」に代表される全国区のネーミングなのだが、実はここ枝幸町もインターネットで公式ホームページを上げたのでは北海道の市町村では先駆的だったのだ。
実は今年のオホーツクサイクリングロード、先週の歌登町と途中で走りながら目にする風景に独特の雰囲気がある。それは酪農の離農跡と旧国鉄の廃線の跡である。
ちなみにバイクで北海道を走り回っていた頃の1984年の地図を見ると、ここには沢山の国鉄路線が存在した。それを民営化された国鉄はバッタバッタと切ってしまった。そもそも国鉄の路線整備は国策なのだが民営化によって憲法で保障されている「国民は等しく文化的な生活を感受する」って部分をも切り捨てられてしまったのだ。
それはそれで時代の流れなのだろうが、地域の足をここまで切った地域は、ここにしか無いのではと思う。当時の地図を見ながらピックアップすると、先のオホーツクサイクリングロードの元になった網走市と湧別町を結ぶ「湧網線」、遠軽町からオホーツクを北上して興部から名寄市に至る「名寄本線」。興部から雄武に至る興浜南線、紋別市から滝上に至る渚滑線、音威子府から稚内に至る天北線、そして枝幸から浜頓別に至る興浜北線、日本一の赤字線と言われた美幸線、など全て廃止されてしまっているのだ。
廃線跡と離農跡がこの地域の風景のキーワードだろうか。かつての産炭地には過去の栄光を知る痕跡があった。どうもこの地帯では一度も華が無かったような気がする。もし有ったのなら郷土資料館等でその時代に触れることができるのではないだろうか。
漁業が盛んな町として歴史を刻んできたのか、枝幸町にそれを探しに行く。
輪行概要
車の走行は前回と同じ。ただ、戻りに国道40号線を利用して旭川から国道12号線、砂川で国道275号線に別れるルートを辿った。結果は距離はほとんど同じ、時間が30分余計にかかった。往復で600kmを超えるとさすがに「遠いなぁ」と感じる。また、前回は音威子府での糧食の買い出しだったが、今回は音威子府の手前から歌登に曲がったので結局ルート添いにコンビニは無かった。最も手前で沼田町の碧水のコンビニだろうか。ここから歌登町の「中央ほべつ公園」まで150kmの間にコンビニは無い。
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強烈な向かい風と戦う
公園の駐車場に車を駐めて自転車を組み立てる。サイクロメーターの高度を見るとマイナス20mと表示されている。かなり気圧が低いのだろうか。とりあえず高度30mに補正する。今日はオホーツクの海に出るのだからその時に最終補正すれば良い。
とにかく食べ物の確保である。札幌から6時間車を運転してきて、まだ何も食べていない。前回の歌登町訪問ではコンビニを発見していない。しかし、セイコーマートは212全市町村に出店完了と数年前に広告していたので、ここ歌登にも絶対あるはずだ。前回通過の交差点をさらに進むとその先に「セイコーマト歌登店」を発見。やっぱり212市町村進出は嘘ではなかったのだ。なんとか補給できた。
とりあえず少し走ってから小休止して補給することにして東に向けて先に進む。この時期の北海道に共通する東からの風、つまり向かい風が強い。当日の天気予報は「海岸線は曇り」だが歌登から内陸方面は晴れている。雲の動きが早いが海岸から離れると気温が上がるのか雲が消えていく流れだ。
緩い上り坂なのだが強い向かい風のために急斜面を登っているような気がする。一生懸命踏むのだけれどなかなか速度が上がらない。気温が低いのでサイクロメータを切り替えてみると17℃と表示される。かなり冷たい風が海から向かい風として吹いてくるのだ。20℃以下の気温でのサイクリングは走行に必要な体力に加えて低温による体力消耗も結構あると思う。ウインドブレーカーを着るかどうか迷うが、とりあえず登りなのでそのまま進む。
峠の頂上を越えたかなって思われるあたりで下穂別に左折するT字路に出る。ここにバスの待合所が有る。この待合所で風を避けながら補給することにする。で、待合所に入って風が途切れた瞬間滝のように汗が流れてくる。強く低温の向かい風で気が付かなかったのだが、結構体力勝負でガンガン登ってきたのだ。それが休んだ瞬間風も無くなるので汗に現われたのだ。
もう一つ驚いたと言うか困ったことが発生。先のセイコーマートで購入した茹で卵は「温泉たまご」だったのだ。黄身は固まっているが白身はゲル状なのだ、むいて食べると言うより「吸い込む」って感じで食べなければならなかった。結局サンドイッチと「温泉たまご」を補給してペットボトルのジュースで給水する。再出発すると50mも行かない先に左右それぞれに公園が有った。冷たい風が無ければここの公園で休憩するのも良いだろう。帰りは利用させてもらうことにする。
ここから「そろそろ海が見えるはずだ」って確信で更に先に進む。緩い坂を下るとほどなく国道238号線に合流するT字路に出る。ここに道路標示が有ったのだが、これを見たサイクリストも多いと思う。去年湧別で見た距離より100km少ないのだ。
北上して宗谷岬、そして稚内市を目指すサイクリストにはなんとも心強い「稚内124km」の標識ではないだろうか。あと1時間程走ればついに残り距離が2桁になるのだから。宗谷岬から稚内市までは20km以上有るので、実質的にここから宗谷岬まで100kmを切るのがこのT字路なのだ。
千畳岩を目指す
次回への足がかりも兼ねて今回は枝幸町の北にある千畳岩を目指す。ここから北に浜頓別を目指すかどうかは別にして、枝幸町から先に進むための枝幸町内のデポ地点を確認しておきたいのだ。枝幸の町は国道238号線が完全に市街地をバイパスしているようだ。右に下ると「枝幸町市街地」って案内標識がいくつも出ている。緩い坂を登ると時計台のような施設が見えてくる。標識を見ると「オホーツクミュージアムえさし」とか。なんかなぁ、箱モノなんじゃないの。「目梨泊遺跡展示場」とか看板に書いてあるけど、そんな古代の歴史より、今に繋がる近時代の歴史のほうが大切じゃないのかなぁ。今日は市街地の郷土博物館を見学する予定なので、なんかこの施設は目障りだった。
丘を越えて千畳岩の入り口を右に曲がる。直ぐに神社が目に入る。お寺って檀家の会員制の施設だが、神社って地域の歴史の跡ではないだろうか。早速参拝させてもらう。港町小樽で育ったので神社とお祭りは多かった。神社一つひつに地域の歴史と言われがあるんだろうなぁ。
振り向くと雲の下ギリギリに三笠山の展望台が見えた。紋別のオホーツクタワーのような施設なのだろうが、何となくそこまで登る気がしない。天候が悪いので遠望が効かないだろうと思う以前に、なんとなくこの町の雰囲気が先の「オホーツクミュージアムえさし」で気に入らなかったことも有る。
さらに進むと千畳岩に出る。ここはオートキャンプ場にもなっているようだ。広い駐車場が有る。デポ地点確保だ。千畳岩は海岸に有るのだけれど、ま、名物に文句は言いたくないが、このオートキャンプ場に比べたら大自然の中で広さとしての「千畳」はどれくらい狭いか一見の価値はある。
火山岩の波による侵食なのか、ドラクエに出てくる敵チャラのゴーレムのような感じになっている。そう言えば手塚治の「火の鳥」で岩の生物が描かれているが、それに似ている。
ここに画像があるが、これを撮影した直後デジカメの電池が切れてしまった。
この公園(と呼んで良いのかな?)には海難慰霊碑が有る。オホーツクの漁業に従事して亡くなった人々の慰霊の碑なのだが、このような碑が作れる地域の文化に敬意を表したい。この碑は地元のお寺の(会員制なのだが)住職が尽力したものらしい。
枝幸町(北見枝幸町)
ここから枝幸町市街地に向けて戻る。まず最初にセイコーマートでデジカメ用の電池を購入する。札幌なら100円ショップのダイソーで4本100円なのだが、2本で298円だった。でもレシートを見て思った。今日は「セイコーマート歌登店」と「セイコーマート枝幸店」のレシートを手に入れたのだ。1市町村1セイコーマートなのだ。この地域の特徴なのかもしれない。
国道238号線を離れて枝幸町市街地に入る。海を見ると流氷除けなのか海に三角形のヤグラのようなものが建っている。これで流氷を防げるのだろうか。
市街地に入って最初は港に向かう。オホーツク漁業の基地として活気が有る。すれ違った軽トラックはホタテとタコを満載していた。漁が終わった船が港に戻ってくる。
漁業がこの町の産業の中心なのだろうか。それにしては収穫の中心が魚では無くて魚介類なのは不思議だ。ここでは魚の漁業は無いのだろうか。
とりあえず証拠写真を役場の前で記念撮影。最近買ったミニ三脚を利用してセルフタイマーで撮影した。町を辿るのだけれど「郷土資料館」が見つからない。役場と町立病院の間を何回も行き来する。そこでここには「枝幸高校」が有ることを発見。先の歌登にも音威子府にも高校は無かったから、この地域の高校生は下宿してこの高校に通うのだろうか。とすると、その下宿先数でも結構なビジネスになるだろう。そしてさらに途中でこんな駅前跡地を発見する。
駅が無いのに駅前食堂なのだ。実は先に書いた興浜北線(浜頓別−枝幸)の枝幸駅の跡地がここなのだ。廃線になってから何年もたつのだが駅の無い「駅前食堂」は引き続き営業していたのだ。
先に書いたようにここは鉄道が無くなった地域なのだ。枝幸町にとって枝幸駅は地域が全国に繋がる窓口だったのだ。でも、それが無くなったのだ。全国一律に繋がる国鉄が切れて、地域の足対策がないがしろにされてしまったのだ。ここ枝幸町で東京に行ったことが有る人が激減してのではないかと思う。それは国鉄が地域の足が中央のへの絆なのかを考えると明らかだと思う。国鉄の路線廃止は地方切り捨て文化宣言なのだ。そんな切り捨てられた人々の怒りがこの「駅前食堂」ではないのだろうか。さんざん町中を走り回っても郷土資料館が見つからないので町内のスーパーで聞くと、先のオホーツクミュージアムの中にあるとのこと。なんか箱物を作って郷土の歴史を「封印」したのではと怒りと興味を持ちながら国道を越えて坂を上りオホーツクミュージアムに向かう。
オホーツクミュージアムえさし
受け付けで「ここに郷土資料館が有ると聞いたのですが」と告げると入場料300円だそうだ。どうも無料で使える施設の一部が有料になっているようだ。その展示は先の看板に有った「目梨泊遺跡展示場」の発掘品と住居再現、加えてオホーツクに生きる動物たちってんで剥製の陳列。「枝幸町のあゆみ」コーナではパンフレットには「枝幸の生きた歴史を実感してください」と書かれているが資料は枝幸大火の新聞記事数枚。これで300円かよぉ。と唸ってしまう。遺跡だけで生活の歴史が無いじゃないか。
無料コーナには「コンピュータルーム」があって、当然のようにwin98が鎮座(笑い)している。オホーツクミュージアムシアターでは申し込めばDVDが自由に見られるのだが、それに50席も要るかぁ。利用者は子供つれのヤンママが数組。ほとんど託児所と化しているのだ。腹立ちまぎれに今時珍しい喫煙コーナで思いっきり煙草を吸って帰ろうかと思ってふと階段を見ると2階にも「何かあるらしい」。トイレでも借りようかと階段を上ってまた驚いてしまう。
廃止になった枝幸駅の資料が漫然と並べて有るのだ。特に展示では無く並べて有るだけなのだ。音威子府駅の「天北線の思い出」コーナから見ればとても展示とは言えない。その中にこれが有った。
ただ使ったものが残っているだけなのだ。昭和60年(1985)6月30日に興浜北線が廃線になり、人々の生活がどう変わったのか。それが僕の知りたい「郷土資料」なのだ。それが無造作に物品陳列されていることが不思議でならない。当時の枝幸駅の料金表が有った。
写真はここにあるがこの写真には写っていないが左側にある木製の「北見枝幸駅」の看板は多くの「鉄チャン」のホームページに写っているものの現物なのだ。なんで、この資料と言うかガラクタを整理して興浜北線の歴史を留めようとしないのだろうか。ここ枝幸では興浜線の事は何処かタブーなんだろうか。
先の常呂サイクリングロードに有った湧網線の碑では「赤字対策で廃止された」と怨念が込められていた。ここ枝幸ではそもそも相手にしていなかったのだろうか。それとも、この施設で興浜北線を展示してはいけないって関係省庁の指導が有ったのだろうか。少なくとも枝幸町民の意向では無いだろう。
戻ってからインタネで調べると幻の美幸線(未開業の仁宇布−枝幸間)の資料はバスターミナルの2階に有るらしい。これは見逃した。1984年の地図ではこの未開通(鉄路の敷設のみ残作業)は記載されてるが、南北の興浜線を結ぶ路線は記載されていない。美幸線より更に可能性の無い路線だったのだろう。
じつは、この展示を見て、残されたオホーツクの地域を「廃線と鉄路の文化」のテーマで回ってみたくなった。つながらなかった興浜北線と興浜南線を自転車で繋いでみたい。そんな気持ちにここ2階の枝幸駅の「残骸」を見て思った。なんともある意味「示唆に富んだ」郷土資料館である。
未だに続く路線廃止後の治山事業
歌登に戻る幌別川にそって幻の鉄道路線がある。これは歌登から南に向かう路線で、昭和59年(1984)当時の地図に路線名は出ていない。これは美幸線の跡地と言うか未完成区間の跡地。この跡地にトンネルや崖を削った所がある。これが国道に近いため崩れてこないように補強や治山工事が必要なようで、当日も工事を行っていた。
この費用は税金なんだろうなぁ。当然跡地はJRは手放しているから。
やはり廃線後の亡霊を地域は引きずっていかなければならないのか。なんとも20年前の廃線を水に流して忘れてしまって良いのか、複雑な心境になった今回の枝幸町訪問の旅だった。
注:戻ってからインタネで更に調べると、美幸線廃止の後に民間のバス路線が設置されたが、このバスも不採算で撤退し、美深町や歌登町の町営貸し切りバスがこの路線を運行しているらしい。民間バスですら不採算なこの地域は税金(町営)でバスを維持するしか無いのか。だとしたら、公共交通機関ってのは人口密度に準じて税金投入も致し方ないのか。
2003.06.28 (C)Mint 本日の走行 58.0km 走行時間 3:55 (車:片道 308km、往復616km)