輪行(C&C(Combined Cycling))概要
国道275号線をひたすら北上するルートに変わりは無い。前回の訪問で確保したデポ地点までは330km程だろうか。300kmで5時間以上(タテマエ)かかるから少しでも自転車での走行時間を確保するために札幌を出発したのは4時30分だった。北海道の夏は日の出が早い。テレビの天気予報で最近は4時10分と言っていたが確かに外は既に明るい。実は学生時代は北見市だったのだが、寮で徹夜マージャンをやっていて3時半頃に窓から朝日が差し込んできたことがある。白夜とは言えないが北に来るほど、そして東に向かうほど日の出が早いのだ。
今回車の輪行に加わった新たなルートは小頓別から中頓別の北緯45度線までのルート。前回は霧雨の中でのサイクリングだったが今回は青空が広がる。「北国の青い空」を車の中から満喫させてもらった。音威子府から中頓別までの間に2組の旅人を発見した。一人は両手にストックを持った赤の衣装の若い徒歩旅人、もうひとりはリヤカーを引いた黄色の衣装の少し高齢な旅人。
実は赤の徒歩旅人には帰りの中頓別―小頓別間で再開した。クラックションを鳴らして窓から手を振って彼の前途を願った。僕が走っている間に小頓別を曲がって中頓別を目指しているのだ。車で30分程度の距離を彼は6時間かけて歩いたのだ。旅人は今夜は道の駅ピンネシリで休憩するのだろうか。
北緯45度の看板
先週に確認した地点に戻って来た。今回は車でだけど。直前の寿公園で小学生だろうか4人の女の子の自転車集団走行を目にした。なんせ時期が時期なので「小学6年生4人組」ってキーワードは気になる。
看板の前で再度GPS携帯で計ったのだがやはり世界測地系では400m程ずれているようだ。自転車を組み立てていると先ほどの「小学6年生4人組」が坂を下ってくる。この集団とは何故か後で再会するのだが。
自転車を組み立てて国道275号線に走り出す。左に回り込む道を進むとトンネルが見えてくる。実は前回このトンネルまで足を伸ばそうと考えていたのだ。雨が強くなって引き返したのだが、実はトンネルの一歩手前までたどり着いていたのだ。
ここからさらに先を目指す。当日は東の風が強く海岸に出るまではかなりの向かい風の中を走る。ま、帰りには追い風なので貯金と思えば気が楽だ。澄み切った青空が眩しい。北海道の魅力の一つに澄み切った青空にあると思う。人間が生活により大気を汚染しているのは頭では解っているが実際に何処まで遠くを見られるかと言えば、ここ道北では天気が良ければ100km先でも見えるのではないだろうか。前に紋別市のオホーツクタワーで知床の山々が撮影されてるが、これは150kmを超える眺望なのだ。都市部では遠望は50kmが限界のようだ。たまに100kmを越えて見えるのは台風一過とか特殊な気候の時に限られるらしい。
平坦な道を進むと下頓別のあたりで先ほどの「小六4人組少女軍団」(だんだん、表現がアブナイ方向に行くなぁ)を追い越す。実は先ほど自転車を組み立ててる時に「サイクリングクラブの人じゃない」なんて仲間内での声を聞いていたので、「それらしく」出来るだけハイスピードで一気に追い抜く。
浜頓別町手前で「ウソタンナイ砂金公園」への分岐路に出会う。ここは先の中頓別と同じように砂金の経済が有った地域なのだ。それにしても「ウソタンナイ」てのはどうかなぁ。明石家さんまなら「嘘で固められた私の人生。まだ、私の嘘が足りないんですか。もう十分でんがなぁ」なんて言うだろうなぁ。地図には出てないので最近出来たのだろうか。本家は中頓別なのか浜頓別なのか。ここの公園では世界砂金大会なんかが有るようだ。ポスターにはさすが「嘘足りない」ではまずいので「ウソタン会場」と書いてあるが。
浜頓別町
農業試験場が左手に見えるあたりから浜頓別町の市街地が始まる。その先の浜頓別高校では高校祭の準備なのだろうか行灯の制作に生徒達が頑張っている。さらに北に向かう交差点近くに浜頓別町役場が有った。昔に仕事で訪れた時には木造で打ち合わせ中に「ネズミが出た」とか騒いでた役場が随分立派になったものだ。実はこの役場庁舎は町民からの公債で作られたようだ、詳しくは浜頓別町のホームページに情報があるのだが、この日を前後して1週間ほどサーバーが落ちていた。訪問の証拠写真を撮影して、さてどうしようか。
クッチャロ湖に向かって「北オホーツクサイクリングロード」を猿払村に向かおうか、それとも先のウソタンナイで砂金体験でもして来ようか。実は二度目の日本一周挑戦中のkazuさんが稚内からここを南下してくる可能性があるのだ。とりあえず国道をさらに北上し、次回のデポ地点を探すことにする。
ここ浜頓別町で国道274号線は終わりになる。ここからは国道238号線に接続する。札幌から伸びてきた国道275号線はここで終点(浜頓別から見たら起点だが)を迎える。町の出口でついに稚内一桁の道路標識を発見する。
ここオホーツクラインは北上するサイクリストにとってキツイと思う。実は7月なら北海道は反時計回りに回るのが良い。8月に入ると逆に時計回りが楽なのだ。今日もそうだがここオホーツクラインでは追い風になる公算が高い。でも、知床峠を越えて斜里町で400km先の稚内を見てひたすら走って、いよいよここ浜頓別で残り距離が2桁になるのだ。
風は東風なのだがここからは横風で若干追い風なので国道238号線をガンガン進む。途中でサイクリストに会ったので「kazuさんですかぁ」と声をかける。残念ながら本人では無い。「向かい風が強くて、今日中に雄武行けるかなぁ」なんて話をする。稚内を朝に発ってすれ違ったチャリダーは僕が最初だったそうだ。
バイクのライダーも多い。多くは宗谷岬からの帰りなのだろう、自転車の僕にもピース挨拶を投げてくれる。これは経験的に解るのだが宗谷岬を目指す者と通過した者の違いなのだ。通過した人間は「あと少しだぜ」と合図を送りたくなる。目指す人間は何処まで走ればいいんだってことで必死の状態にある。だから、ここでは目指す者と過ぎた者では態度が違うのだ。こちらは横風気味の追い風でスイスイ走っているのでチャリダーだけでは無くバイクにもサインを送る。
途中、たぶんkazuさんって自転車とすれ違う。ホクレンの旗を立てた自転車だったのだが声を掛けるタイミングを失った。都合4人のチャリダーとすれ違った。
猿払(さるふつ)村
途中で発電の風車に出会う。白に赤の発電用風車が回っている。じつはこのあたりから天気は霧、気温もずいぶん下がっている。浜頓別で青空の下でサイクロメータで計った気温は22度だったのだが、このあたりでは気温が17度に下がっている。で、このままさらに北を目指す。実は猿払村ってのは北海道で一番広い村なのだ。ようやく富士見橋にたどり着いたら「役場、10km先左折」なんて看板に出会ってしまう。まだ、先なんかいなぁ。思わず独り言が出てしまう。なんせサイクロメーターは40kmを越えているのだ。しかも、車のデポ可能な駐車場は見つからないのだ。
ここまで来たら次回また300kmを札幌から走って来たくない。さらに10km先の役場まで行くしかないだろう。幸い風は追い風だし。とにかく国道238号線をひたはしり、やっと猿払公園に到着する。ここにインディギルカ号遭難の碑がある。実は猿払村の役場はどうでも良くて、この碑に出会いたかったのだ。ついにここまで来たのだなぁと感慨ひとしおである。
今は海の災害は小規模でどちらかと言うと航空機事故が報道の目玉だが、わずか100年前には交通事故と言えば海難だったのだ。その意味では「タイタニック」が有名だが北海道ではタイタニックに次ぐ海難が起こっていたのだ、それが洞爺丸でありインディギルカ号なのだ。どちらもタイタニック並みの大海難だったのだ。
死者数でくらべ比べるのは「なんちゅうスケールなんだ」とお叱りを受けるかもしれないが、世界の海難事故でタイタニックに匹敵するのが1954年(昭和29年)の洞爺丸台風時の七重浜を中心に起こった多数の海難。総数はタイタニックを超えるが洞爺丸一艘でも800人以上の死者が出たのだ。そして、それより前の1939年(昭和14年)にここオホーツクでインディギルガ号の遭難が有ったのだ。1939年と言えば太平洋戦争直前の時代。国際緊張状態で起きた海難なのだ。それが国際貢献へ繋がったのだが、時代の流れは戦争の時代へと流れている。そんな時代の海難を歴史に留めた「インディギルガ号」の歴史を見ておきたかったのだ。
ここの碑文には以下のように書かれている。
昭和14年12月12日。ソ連船「インディギルカ」号とそれに乗り合わせていた人々に最後の時がやって来た。
「イ」号は、秋の漁場を切り上げて帰る漁夫及びその家族1004名を乗せて、カムチャッカからウラジオストクに向かって航海中、折からの暴風雨に押し流され、乗組員たちの必死の努力も空しく進路を失い、12月12日未明浜鬼志別岩沖1500mのトド岩に座礁転覆700余名の犠牲者を出す海難史上稀有の惨事となった。
身をさくような厳寒の海上で浪と斗かい、肉親の名を叫び続けながら力尽きて死んでいった人々のことと、その救助に全力を注いだ先人たちの美しい心情は、人類のある限り忘れてはならない。
この碑は、北海道はもとより国内の数多くの人々、並びにソ連側の海員、漁夫の善意に基く浄財によって、「イ」号と運命を共にした人々の冥福を祈ると共に、国際親善並びに海難防止の願いを込めて建立されたものであり、台座の石はソビエト社会主義共和国連邦から寄贈された花崗岩である。
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台座の白い花崗岩は寄贈されたものらしい。前に枝幸町で見たように、「海難」ってキーワードはオホーツクの海に対峙する人々には忘れられない幾多の事件を思い起こさせるのだ。世界で例を見ない大量遭難がここ北海道の道南函館、そしてここ道北猿払で起こっていた歴史を意外と人々は知らない。
あー、あと何キロ走ったら役場なの。ここから国道を進み左に曲がって猿払役場に向かう。交差点を左折してからさらに4km有るそうだ。まったく猿払村は広い。でも考えてしまうのだけれど、戦後の1945年当時に猿払は貧困の村だった。入り口の戸がムシロだった家も多かったと聞く。この時にホタテの養殖を目指して村の年間予算が数千万円の時に1億円のホタテの稚貝を海に撒いた。で、結局は無駄に終わった。にも関わらず更に次年度も稚貝を海に撒く。そして、目的とした海域は外れたが大量のホタテの水揚げが可能になった。経済も一気に好転し、ホタテ御殿と呼ばれるほど漁業の高収益が実現した。それが猿払村の歴史だ。
で、現われた役場の庁舎も「ホタテ御殿」なんだなぁ(笑い)。市街地ってのが無い分散型の村の構造は何処かに理由が有ると思って近くの看板地図を見ると北海道で一番広い村である猿払村では地域別に独立して組織が有り、これが合体している構造なのだ。だから、ここ役場の地域は猿払村では単なる一地域でしかないようだ。
漁業が中心の町の風土は「自己完結」である。その意味で漁業に立脚するもしくはした歴史の町では独特の文化が発生する。ここ猿払村がどうのこうのと言うつもりは無いが「個々人の勝ち組と負け組の明確化」である。漁業を経済の中心にした時に形成される文化は個人主義である。その事を解って政治を運営している組長は少ないのだが、具体的には今まで訪問した市町村では岩内町、大成町、枝幸町、小樽市、松前町、なんかで感じた個人中心色の強い文化風土なのだ。
ここ猿払村も同じようなにおいがする。具体的には共有文化施設が極端に少ない。有っても国の箱モノで地域に馴染んでいない。地域に統一的文化風土が感じられないのだ。それが悪いとは言わない。地域の特徴なのだから。ただ、せめて公共組織である役場はそれを踏まえた文化作りをしてもらいたいのだが、役場も「個々人の勝ち組みと負け組みの明確化」に巻き込まれてはいけない。この庁舎はなんとなくそれを感じる。こんな海岸から離れた場所に役場がそれも地域で最も大きなビルが作れるのか、これは亡霊、村がまだ開拓の歴史を酪農に求めてホタテ漁業の成果を認めていない、未だにそれに対抗しようとしてる証左なのではと思う。なんか、漁業経済の町ってこの点が悲しいよなぁ。
猿払村からの帰りの55kmで苦戦
さて、猿払の役場まで来たし、出発点に戻ることにする。
役場から海岸線までの5kmは若干の丘を越えることになる。緩い坂を登っていると急に足に来た。前に常呂で起きたような太股がつってしまった。これが苦しいのは立ってられなくなることだ。『なんでまた、ここで』なんせ折り返したばかりなので残り55kmは有る。「歩いてでも」って言えない残り距離だ。
当日は出発点では抜けるような青空で気温は22度。若干の追い風にいい気になってここまで飛ばしてきたが2時間半連続走行。天気はオホーツク海からの冷たい風で霧を含んだ曇り空。さきほどのインディギルガ号で見学のために自転車を降り、さきほど役場の前で撮影のために自転車を降りてと筋肉を休めたために急に体温が下がった。サイクロメーターで気温を計ると13度。なんと低温なんだ。
ハンガーノックだろうか、それとも足の限界だろうか。後者だと出発点までどうして戻ろうか。いろいろ考えながらとにかく国道238号線まで出ないとヒッチハイクも出来ないとゆっくりと進む。
国道の小学校の前で休憩しながら考える。まず低温対策に捲り上げていたズボンのすそを降ろす。ウインドブレーカーを着る。去年あたりから札幌から遠いので一回の走行が50km前後になっていた。そのため補給を考えなくても良かったが前は80km以上を走っていて良くハンガーノックに陥った。そのため1時間走行したら補給しながら10分休むなんて計画で走っていたのだが、これを忘れて今日は一気に走ってしまった。
今年は既に結構走っているので「足の限界」ってことは無いだろう。とするとこれからの計画だ。一番良いのは途中の道の駅「さるふつ公園」で食堂でも探して1時間ほど補給と休憩を行う。次の案は向かい風の強い国道238号線を避けて「北オホーツクサイクリングロード」を浜頓別に抜ける。第三の案は国道で軽トラックをヒッチハイクして自転車ごと乗せてもらう。
とりあえず防寒(だよなぁ、気温13度なんだから)対策してオニギリを食べ、「北オホーツクサイクリングロード」を選択する。なんせカバンにはオニギリ3個と茹で卵2個が手付かずで残っている。
道の駅からの看板で「北オホーツクサイクリングロード」に曲がる。が、1kmも行かないで道が切れている。途中のY字路を猿払に戻る道があるが、こちら方面なのだろうか。先に常呂で感じたのは廃線を利用したサイクリングロードは途中誰にも出会わず補給もできずって事なので今の状況では危険だ。足がつって誰かに助けを求めたくても誰も通らないのだから。このため無理にサイクリングロードを探すのを諦め折り返して国道に戻る。
国道に戻り向かい風を意識して30分走って5分休憩のペースで走ることにする。ありがたいのはこのコースは風以外ほとんど起伏が無い点だ。また、随所に小屋形式のバス停があり、ここで風を避けて休憩できる。
これを繰り返して1時間ほどでなんとか足の調子は戻ってきた。ハンガーノックに陥るとはなんとも無計画なのが恥ずかしい。
戻ってきてからインタネを駆使しして調べたが、この「北オホーツクサイクリングロード」は猿払村と浜頓別町の協同事務組合が管理するものらしい。詳しい路線図や看板は皆無に近く、googleで検索しても3ページ30件ほどしか情報が無い。いまや「お荷物サイクリングロード」と化してるのではないだろうか。浜頓別側のクッタラ湖側しか最新の国土地理院のweb地図に出ていなかった。
再び浜頓別町
途中霧雨状態の所もあったが「納豆走行」で再度浜頓別町まで帰還した。本当、猿払での足の状況から「帰還」の言葉が最適だと思う。こちらは天気も晴れていて気温も22度に戻っている。「なんとか、ここまで戻れたなぁ」と思い町の中をポタリングする。25年前の職場の同僚の実家が商店を経営していたのだが、その店を探すが今は無い。ただ、同じ場所に同じ名前のアパートが有った。今はアパート経営しているのだろうか。
同じく25年前に泊まった旅館「浜頓ホテル」が今も営業しているのを確認。町の様子は変わってしまったが人々の営みは連続して続いているようだ。国道275号線への曲がり角にある公園で小休止。ここは昔の天北線の駅の跡にバスターミナルが有る。ここの2階に天北線の展示があるらしいのだが、あまり見る気はしない。足の痛みをかばってここまで帰って来た気分が、過去の歴史を見たいと思わせないのだ。目の前のビルの2階に上がれば良いだけなのだが、パスして公園の水飲み場を利用して顔を洗う。ベンチにどっかり座ってオニギリを食べる。正直「良く、ここまで戻ってこれたなぁ」って気分である。
先ほど顔を洗った水飲み場に4歳くらいの子供二人が背伸びして水を飲んでいる。あ、ここの水道料金は25年前は僕が作ったプログラムで計算していたんだよなぁ。と思う。もちろんこの子供たちは知らない。さっき顔を洗った水も自分が作ったプログラムで料金計算してたのだと思うと何故か笑いが込み上げてくる。ここ浜頓別町は「訪問」では無くて「再会」だったのだ。「再会」を大切にせず猿払に足を伸ばしたので浜頓別は怒って天罰でハンガーノックにしたのかなと苦笑する。
天気が回復した道を出発点の中頓別に戻る。途中、居ました居ました「小学校6年生少女軍団4人組」(さっきと表現違うなぁ)。「やぁ!」と手を上げると「こんにちは」、「やっぱサイクリングクラブだって!」なんて声を掛けてくれる。中頓別、浜頓別どちらも地域の商業の拠点なのだろう。でも少女が自転車で行けるほど近い。競争原理が働く地域は活気があって楽しい。
「再会の旅だったんだ」と自転車を分解して車に積みながら思った。浜頓別の公園の水飲み場で補給した水をボトルから飲みながら「過去も大切だけど、明日ももっと大切だよな」と出会った子供たちの顔を思い浮かべた。元気な子供達、そして若者を目にした旅だった。
2003.07.19 (C)Mint 本日の走行111.3km 走行時間 6:14 (車:片道 330km、往復660km)
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