オホーツク海最後の旅 興部町、雄武町

コース概要
 前回と同様、紋別市の大山パーキングより北上して興部(おこっぺ)町と雄武(おうむ)町を目指す。この雄武町から浜頓別町にむけて興浜線敷設計画があったのだ。太平洋戦争で一度敷設した鉄路を剥がしたり、戦後になって再度開通に向けて敷設を始めた時に国鉄の赤字解消と民営化で「幻の興浜線」として人々の記憶にしか残らない鉄路だ。
網走市からオホーツク海の海岸線を稚内市まで260kmの間に国鉄(JR)は全て無くなった。国鉄の民営化と前後して北海道の鉄路は半分になった。その見返りに地方の道路は良くなったが高速道路はその頃に比べて距離にして一割も増えていない。
 紋別市から国道238号線を海岸線に沿って北上する。国道に沿って廃線になった名寄本線、そして興部からは興浜線の廃線跡が見られるかも知れない。
 地図で確認すると往復80km程の距離、ちょっと長いが札幌から紋別市まで300km。何回も通う距離でもないので一気に2町を巡るコースを設定した。
輪行概要
 再生したpc-9821nr13にナビトラのソフトを設定し、アマチュア無線機のmileとソニーのGPSアンテナをセットしてパソコン&アマチュア無線の「ナビトラ」(カーナビとアマチュア無線の連動した遊び)を設定した。これを車に積んで紋別市に向かう。途中旭川市から愛別町、上川あたりで数年前にお会いしたJA8SX局のナビトラビーコンを受信する。こちらもビーコンを出しているので後でJA8SX局もパソコンで僕の通過を確認できるだろう。
 当日の天気は晴れ時々曇り、低温だった影響で農作物に被害が出ている今年の夏だが8月の終わりになってやっと天候が良くなってきた。ただ途中エアコンを入れるほどではなく、札幌から紋別市の大山パーキングまでナビトラのパソコンの画面をちらちら見ながらの走行。
 実はカーナビに気を取られて途中新篠津あたりで道を間違えるってミスをおかしてしまった。カーナビを信用しすぎてはいけない(笑い)。

いざ出発
 紋別市の大山パーキングの利用もこれで最後になる。自転車を組み立てて前回見つけた交差点に向けて坂を下る。今日は「強歩会」が有るのか途中から「中継所まであと1km」なんて看板が出ていた。紋別北高と書いてあったので、あれ土曜日でも登校してるんだ。車で走っていても通学のような、って子供達を目にしたのだけれど、週休2日じゃないのかなぁ。
 前回は8月の2日だったっけ、当時工事中の場所がセルフ給油のガソリンスタンドになって営業開始している。結構紋別に詳しくなったりしてるなぁ。道路の向こうから自衛隊の何と呼ぶのだろう「特殊車両」が団体で向かってきた。これって上陸用水陸両用車なのだろうか。
 紋別市をバイパスするこの道を前回は見過ごしたのだが、交差点に出て解ったのは渚滑市街地に出るとこのバイパスに出られな。そういえばさっき通った陸橋の下に前回走った道が見えた気がする。
 天気は晴れなのだが風が強い。西北西の風が風速10〜15m程もあろうか。横風で若干の向かい風だかその風圧は半端じゃない。遮るものが無い所では平野からまともに吹き付けてくる。途中で自転車で走行出来ない程強い瞬間が有って自転車を降りて突風が過ぎるのを待つこともあった。いわゆる山登りでの「風ホールド」である。自転車を降りて風に向かって自転車に体重をかけて体を丸くして風が治まるのを待つ。
 右にオホーツク海が広がる海岸線の道なので大きく右に湾曲した海岸線の先に市街地が見える。サイクロメーターではまだ10kmなのだがあそこに見える市街地は興部なのだろうか。
 実は今回忘れ物をしている。今まで帽子とかボトルとか結構忘れ物をしたのだけれど今回の忘れ物は「地図帳」。地図が無いサイクリングがむなしいのは今そこに見えている市街地が何なのか解らないってこと。しっかし地図忘れるってのは最低だよなぁ。
 興部町の手前に沙留(さる)岬、海水浴場、市街地が広がる。ちょうど紋別市と興部町の中間地点にあたる。ここまで対向車線を南下するサイクリスト1名、追い越したサイクリスト1名、バイクは数しれずってくらい旅行者が多い。夏にバイトで稼いで少し遅い北海道の旅を楽しんでいるのだろう。
向かい風の中で興部町まで1時間20分ほどかかってしまう。

道の駅「興部」
 国道に道の駅の看板を見つけ左折すると広い公園に出る。道の駅の施設そのものはバスターミナル兼交通記念館になっていて物産館が併設されている。その奥には列車2両を利用した無料の宿泊施設がある。このあたり一体は興部駅の跡地のようだ。交通記念館で歴史を展示しているが、ここ興部は名寄本線と興浜線の分岐点だったのだ、操車場跡地だけあって広い敷地が残された。また、操車場が有ったってことで当時の国鉄職員とその家族だけでも結構な人口だっただろう。
 資料を見ると大正10年には名寄線(その後「本線」)が完成している。当時の国鉄にかける国策は現在では考えられない程急ピッチだったのだ。上野横浜間に鉄道が走って10年で青森まで伸びているのだ。土地所有の考え方が低かった時代だから特に北海道は早い者勝ちで鉄道路線を延ばしたのだろう。そして最初は木材運搬、やがて石炭運搬と建築やエネルギー輸送に鉄路を使ったのだ。
 それに比べると道路の整備は遅れていた。前に札幌小樽間の札樽(さっそん)国道の碑をレポートしたが舗装道路が整備されたのは昭和30年代。それまでほとんどの道は未舗装だった。それほど鉄路の時代は長かったのだ。
 こうして「輪行」で車に自転車を積んで走り回れるのも鉄路に替わる道路の整備が進んだからだ、それは、ここ30年のことなのだ。石油化学の産物であるアスファルトが利用できるまで、道の舗装はコンクリートであった。だから、舗装道路といえども継ぎ目が有って、雨の日には泥水が浮き出てきていたのだ。
 交通記念館にはバスの時代が始まったみたいない書き方をしているが、名寄本線の廃止への反対運動はかなり熾烈だったと記憶している。長大4路線の廃止は国鉄からJRになる時の「おやくそく」だったのだから、JRも譲れない面があったのだろう。その中で陣頭指揮を取ったのが当時の美深町の長谷部町長で一時は興浜線を完成させてオホーツク本線を作り三陸鉄道のように第三セクターで運営する案も出たが美幸線にもこだわったために御破算になった、さらに「長谷部には鉄道は残さない」って官僚の判断で深名線(深川、名寄間の路線)は廃止、そして池北(ちほく)線が「ふるさと銀河線」で残り、今年の秋には基金を使い切ってバス転換になるって話は何処かで書いた。
 ここ交通記念館で人々の無念と補助金で建つバスターミナルの施設の中では表現できない怨念をこの掲示に見た思いがする。
 ここの公園には宿泊施設として残された国鉄の車両に地元の意地が感じられた。2両の客車の一方は宿泊施設、一方はラウンジ。このラウンジが旅人の交流にどれほど貢献しているか。皆で道の駅興部に行ってここに泊まろう。鉄路の跡地が一番感じられるのがここの道の駅だと思う。
 地図帳を忘れたので町内案内を見ると役場はここから紋別側に戻った所にあるようだ。向かい風で消耗していたこともあるが、このまま次の目的地の雄武町を目指すことにする。ここまで無補給でハンガーノックが心配なのだが、あまり食べたいって感覚にならない、再度国道238号線に戻りさらに北上する。

道の駅、雄武町
 そのまま更に北上して雄武町を目指す。ここの手前に「日の出岬」がある。最近はホテルが出来て観光名所になっているようだ。網走市から稚内市まで240kmに渡るオホーツクの海岸線だが単調な海岸線に時々「岬」が有る。有史以前から流氷で削られたオホーツクの海岸線では岬は貴重な存在で漁港に細工されている。ここは観光開発で「日ノ出岬ホテル」が建っている。その先にガラス張りの展望施設が有って、東に広がるオホーツク海から昇る日の出を見るには最適な場所かもしれない。特に一面流氷に覆われた真っ白な雪原から昇る朝日は壮観だろう。
 ここ日ノ出岬も丁度、興部町と雄武町の中間地点にある。このコースはおおむね10km毎に市街地が広がるようだ。
 雄武町の役場到着。国道に面している普通の役場庁舎。30年程前にこのあたりを走った記憶があるのだが、国道の狭さは当時と変わっていない。多少幅が広がったかもしれないが市街地に入ると狭くなるって傾向は市街地再開発のテンポが遅いってことだろうか。
役場の斜め向かいにタワーが有る。道の駅「おうむ」だ。このあたりが先の興部から延びた興浜南線の終点(仮の)だ。インタネで調べた時にこのあたりに使われないまま埋められているトンネルが有るらしい。それよりもこの道の駅のタワーに登ってみたくなって施設の中に入る。トイレで顔を洗ってエレベータに行くと記帳すれば無料でタワーに入れるらしい。これはラッキー。名簿を見ると結構東京からの訪問者が居たりする。
前の紋別市のオホーツクタワーに登ったが、高度はそれほど高くない。窓も鉄骨が太くてあまり眺望が良くない。詳しくは北海道写真館に掲示してあるが、まったく何の設備も無いガランとした広間があるだけだ。なんでこんな施設作ったのかなと思うが、これも公共事業ってことなのだろうか。
 下のホールに降りて喫煙所が有ったので煙草を吸いながら観光ポスターを見てまわる。おっと城之内早苗がなんでここに? 我々の世代の少し前の世代には今のモー娘に匹敵するオニャンコ・クラブの城之内早苗。彼女のポスターが貼って有る。(実は我々の世代はキャンディーズなのだが)。当時のオニャンコの同期はキムタクの奥さんの工藤静香も居たのだ。ポスターを見ると、さっき通り過ぎた日ノ出岬を歌った「北の岬」を城之内早苗がうたっており、CDを日ノ出岬ホテルで販売していると書かれている。ま、正直言って「馬鹿じゃないの」と思った。ここ道の駅で売っていれば僕は間違いなく買ったのに。
2時間半走ったので雄武港に出て昼食にする。サイクロメータも40kmを越えている。天気が良いので海が奇麗だ。興部から雄武に向かう時に感じだのだが濃い青の海がここ雄武では所々コバルトブルーなのだ。海底の様子が違うのだろうか。港は漁港であった、そのため各漁師の人の裏庭が海岸線なのだ、なんとか護岸工事がされてる海岸線を港の南に見つけてここでオニギリとソーセージで昼食にする。
ここの写真が同じく北海道写真館にあるが、冬の流氷と極寒のオホーツク海とは思えないほどおだやかな海だった。岩が低い島を形成しているのでそこにカモメが集まっていた。
オホーツクの海を見るのはあと知床半島を目指すのを最後になるのかなぁ。こんな穏やかなオホーツク海って年間でもそう何日も無いのではと思う。
しっかり休んで出発点の紋別市に向けて走り出す。やっぱ足に来た。どうも補給をいいかげんにしているので休み明けの走行に筋肉が再起動しない。興部で「食べておこうかなぁ」とは思ったのだが、結局、無補給で40km走り、歩いて道の駅とかを見て、海岸で休んで、走りはじめたら足がつりそうになった。
 幸い午前中のような強い風は凪いでいる。海岸線の道を興部に向かいながら体力が戻ってくるのを待つ。やはり50km当たりが鬼門だなぁ。

興部町役場
先ほど通過した興部町の役場を目指す。じつは交通公園で見た地図は縮尺が解らなかったのだが、あそこから500m程の距離だったのだ。札幌に住んでいると札幌の感覚になってしまい、5、6km先なら帰りに寄ろうと思ってしまうのだ。
 役場の前でお約束の記念撮影。何故かおさまったと思った風がここだけ強い。役場の明文を記した石碑を見るとなんか変なのだ。
 うーん、なんだかなぁってのが興部町役場の「興部町庁舎」の石碑。題字は「自治大臣 町村金五」と署名があり、裏にまわると「寄贈 昭和49年 雪印乳業」とある。田中角栄が総理大臣時代に現在の町村信孝衆議院議員の父である町村金五氏が自治大臣だった時代の産物だろう。
 雪印乳業は現在でもここ興部町に工場を持ち操業しているが、寄贈したこの碑の碑文に町村金五氏の文字をもらうのに、いくら払ったのだろうか。そもそも役場に役場の看板を贈るのが民間企業の行為として正当なのだろうか。看板の形をとった雪印乳業の政治献金ではないのか。今の時代では到底出来ない技の象徴を役場の真ん前にデンと置いておくのはどうかなぁ。反面教師ってことなら解るが。
 前に陸別町だったと思うが前の旭川市長で当時の村山内閣で自治大臣だった五十嵐こうぞう氏が「素晴らしい役場庁舎」なんて表彰していたが、それと何も変わらないだろう。「自民党的な」も「社会党的な」も同じ穴のムジナなのだ。その動かぬ証拠が212市町村を回ると見えてくるのだ。
 ただ僕は糾弾って感じではなくて、この石碑を見て苦笑するだけだった。この石碑が役場に有るって事を受け止め、その事実に萎える精神の人はこの町を出て行くのだろう。その結果、町に残ったものは何なのか。それは僕が言う話ではない。部外者として「葛藤の町、興部」と感じた。雄武はある意味割り切っているのかなとも思った。
 紋別市に向かって走りながら最後に(最初にも目にしてはずなのだが)目にした橋梁、これは興浜南線の遺跡だ。狭い橋で車を気にしながら撮影、時間が時間なので逆光になってしまった。
 なんとも雄武町の港でのオホーツク海が忘れられない。海岸で拾った数個の石を熱帯魚の水槽に入れて、オホーツク海って夢が残ると感じた。自然が観光資源だと解るためには一回全員新宿の歌舞伎町に行くのはどうだろう。その対局としての観光開発なのだから。実は中標津で昔不思議な体験をした。誰も居ない畑で人の声が聞こえるのだ。幽霊では無い、2km程先で歩いている人の会話が聞こえるのだ。それは体験しないと解らないと思う。同じく「都会ってなんだ」って事を理解しなければ「田舎ってなんだ」を表現できないと思う。どうもこの地域は「田舎博」みたいのを来年開催するようだが、僕に言わせれば「田舎」なんて卑下した表現は辞めてもらいたい。
 これから調べようと思うが、「いなか博」は何処が仕掛けているんだ? 企業の論理に乗って「junos88 世界食の祭典」と何処が違うのか。「いなか博」はまったく馬鹿げている。市民感覚では地元なのだ、生活の場である「地元」を分類する意味はない。「生活の場」ただそれだけである。それが「いなか」であろうが「都会」であろうが、自身はそこで生活しているのだ。
そこで気がついたのが「日ノ出岬」だ。自然を忘れて人々は何も得られないのだ、地方は頑固に自然を主張していく、そこには、何処かにグローバルな精神が埋まっているのだ、城之内早苗のCDを買いたかった。内容では無くて、それで自分も雄武町を応援する一員になりたかったから。
 新しいオホーツクの先駆者は雄武町に軍配が上がるのかな。
2003.08.30 (C)Mint 本日の走行93.0km 走行時間5:53 (車:行き300km、戻り300km  往復600km)

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