渡島半島制覇..今金、北桧山、瀬棚

コース概要
 渡島半島は北海道が最初に拓けた地域ですが、石狩平野、十勝平野と比べて山岳地帯で先人は渡島半島の各地を見た後で石狩平野を見てここに都を作ろうと考えたのも仕方がないかなと思わせるくらい山が多い地形となっています。
 それぞれの市町村は均等に分布してますが、それでは市街地の分布はと言うと、役場の間隔が5キロメートル強な所も有ったりして、実際の市町村区域と人の住む市街地とのアンバランスが多々見受けられる地区です。  今金(いまかね)、北桧山(きたひやま)、瀬棚(せたな)の関係もこれに近く後志利別川の流域の平野に開けた地域に集まっている訳です。日本海に面した各地は明治の時代にニシン漁で栄え、今は農業が中心にかわり、産炭地とは少し違った産業構造の変革にさらされたわけです。
北桧山(きたひやま)町
 先週のデポ地点確保は国道5号線を国縫(くんぬい)で曲がり8kmほど進んだ道路脇の駐車場。実は国縫川沿いに「熊出没注意」の看板が出ているので、ゴミ箱の有るこの駐車場に車を投げて置くのが心配で、少しでも先に安心できる駐車場を確保して、自転車でこの場所まで戻って来て、先週の継続をしようと考えた訳です。 数キロ進むと瀬棚開発建設部の除雪車のUターン場所としてのスペースが見つかったのでここに車を駐めて自転車を組み立てます。
 一旦、先週の駐車場まで戻るのですが、これは下り坂。約3kmほどで駐車場到着。ここから峠越えの登りがスタートします。どうも1週間で足が快復して無いようで、若干の疲れが残っている感覚です。わずか3kmを登り車の駐車地点でひと休み。 天気予報によれば午後から一部の地域では雨とのことで,このようなピストン輸送を少しでも続けて車を前に進めておきたいなと考えたりします。
 いよいよ本当の出発、坂を下ると、ななんと美利河(ぴりか)ってダムのことなんですね。ピリカベツ川、ニセイベツ川、利別川、チュウシベツ川が合流する地点に美利川ダムが有ります。ここの一帯が温泉も含めて整備されており、もちろんダムの下には誰も使わない遊園地が整備されている訳です。車に戻り最終的にデポ地点をここの駐車場に設定します。

北桧山(きたひやま)町
 ま、はじめて本当のサイクリングを開始する訳です。
 実は国縫から北桧山(きたひやま)町に向かう道は国道230号線で、札幌から中山峠を越えてきた国道と同じ番号なんです。虻田(あぶた)町で国道37号線と合流し、長万部(おしゃまんべ)町で国道5号線と合流し、先の国縫で名前を復活し国道230号線として北桧山町に向かう訳です。
 地図からは読めませんがこの最後の230号線は小さな丘を越えながらアップダウンを繰り返し日本海に向かいます。途中大きく曲がった所ではショートカットの新しい道路整備計画が進んでいるようです。清流「後志利別川(しりべし、としべつがわ)に沿って道は伸びているのですが、先のピリカダムのためか、さほど清流って感じはしません。
 今金(いまかね)町の遥か手前から農業地帯特有の農免道路が伸びています。同じ道を往復するよりは少しでも変化に富んだ道の景色を楽しみたいので最初の農業道路を稲穂橋を越えて進みます。これで、後志利別川の南側を進み、今金の役場は帰路に訪問することになります。
 あいにくの向かい風ですが、天気も薄曇りのままで一路日本海を目指します。なんせ農免道路の特徴で、ひたすら直線が続きます。右手の後志利別川を挟んだ数キロ先には今金町の市街地が見えかくれしています。
 さっきから気になっていたのですが、豊田、愛知の地名が目につきます。愛知小学校なんてのも有る。ここは名古屋地区からの入植で始まったのだだろうか。時々旧瀬棚線の線路が撤去もされずに残っている所があって、ここも北海道に多い廃線跡でも有るのだと実感できます。
 江差へ抜ける国道229号線に合流して右に進み、予定では北桧山町の役場に出る交差点。なんと、地図の場所に役場が無い。結構迷いました。ま、一元客が言ってることだから、気にしなくても良いのですが、官庁街が温泉を中心に展開していると言ったら良いのか、新しい建物が集中しているのが北桧山町の官庁街で、ここに新しく建った役場もありました。
なんか、妙に立派で、良く見ると「健康センター」と抱き合わせの建物。最近多いんですよね、境目の無い複合役場。早来町、妹背牛町、浦河町、どっちが役場かわからない複合施設。たぶん、国庫補助を巧く使っているのだろうけど、なんか、税金の導入に長けた地域を象徴しているようで、あまり気分が良いものでは無い。
 そこに住む人の選択だから、部外者がどうこう言う筋では無いが、北海道には役場が栄えて地域が疲弊している地域が多すぎる(それを目にするために自転車で見て回ってるのだが)。全ての住民が去った後、立派な役場庁舎(そこには公僕が住まっているのだが)だけが残る。そんな本末転倒の庁舎に見えた。なんで、時計塔なのか全然わからん。
ここの、園芸センターみたいなと所で顔を洗い、水を補給してそうそうに瀬棚(せたな)町に向かう。

瀬棚(せたな)町
 実は今回の目的は瀬棚町のホームページがなぜGINZって名称で、萩野吟子を中心にしたホームページになっているか、これが知りたかった。
 荻野吟子、日本で初めての女性医師で、しかも女性の地位向上に尽くした女性が北海道の開拓時代に北海道に渡り、活躍したことを北海道の人は知らない。有島武郎や木田金次郎、明治の時代に北海道に無限の可能性を信じて渡ってきて挫折したひた人の歴史は大切にしなければならない。たぶん、その後の満州開墾、南米への移住と、(あ、北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国への日本人妻も同じかもしれない)夢と現実のギャップ(当たり前なのだが)を我々は書き留めて置かなければならないと思う。
 アメリカの西部開拓も、サクセスストーリばかりでは無いはずである。スタインベックの「怒りの葡萄」に片鱗はあるが、基本的に新規開発ってのは夢に満ちているものでなく、大変な苦労をともなう。
それを克服できるだけの高い志が無ければ大敗し敗残兵とならざるを得ない。その中で高い志を持って生きていた人々の歴史を知る事は大変示唆に富んだ教訓がその中にあると考えている。
 萩野吟子、どんな女性だったんだろう。そんな思いがホームページを見て興味を持った部分である。
 先を急がないようにしよう。北桧山の役場から瀬棚町の役場までは6km弱。そろそろ昼食をと思っていたののだけれど、一気に瀬棚町の役場まで走ってそこで休憩することにする。
 1988年の「北の文化会議」だったろうか。函館で行われたこの文化会にパネラーとして、当時のパソ通の面々を集めて参加したのは。この時のパネラーのD.HILLさん(既に離農)の奥さんに招かれて瀬棚の牧場を訪れたのが昨日のようだ。その頃、チーズ作りを始めた農家や、自家製のパンを焼いたり、ソフトクリーム制作にチャレンジする人々を紹介してもらった。当時の僕はパソ通出来るコンピューター屋の域を出ないもので、お話を伺うだけであった。
 役場の前庭で、長万部のコンビニで仕入れた弁当を食べながら休む。昔、瀬棚市街地と思っていたのは北桧山町の市街地だったようだ、ここに来る前に手作りパンとかチーズとかの看板が出ていたのが、昔のD.HILLさん(まさに、夢の丘、ドリームヒルだったんだなぁ)達が居た場所なんだろうか。
高い志はD.HILLさんが離農した後でもこの地に根をおろし続いていたようだ。やはり何事も事を成すには10年のスパンが必要なのかもしれない。たぶん、あの時紹介していただいた面々が、あの丘をD.HILLにしているのだろう。
 もしこの文章を読んでいる方で、瀬棚で酪農を営んでいた今井さん家族の消息をご存知な方は電子メールいただきたいです。
 もうひとつ僕には忘れられない瀬棚が有る。それは、瀬棚町のマークにもなってる「三本杉岩」である。もう何年前になるだろうか、予備校に通っていた僕はせめて毎年の夏休みの旅を今年もしてみたいと思っていた。しかし夏期講習を受けると高校生の時みたいに夏休みが有る訳では無い。そんな僕に北海道新聞の瀬棚の三本杉岩のグラビアは鮮烈だった。来年は大学に合格して夏は旅をして瀬棚の三本杉岩を見たいと思った。結局、北見の大学に進んだ僕はその夢を果たせなかった。
 あれから、28年になるだろうか。今、自分の足で自転車をこいで、ここまで来たのだ。
 三本杉岩は近いらしい、役場から自転車で走り始めるとなにやら、とんがった岩が見えてくる。なんと、あんなに大きなものなんだ。せいぜい高さ10mくらいをイメージしていたのだが、30m近い高さと、それが数10メートルの間に集まっているのに驚いた。これが、あの三本杉岩なんだと思うと、ついに来たのだってことが実感される。28年間、どこか心の隅にあったのが今目の前にある。
3  目的の2番目、荻野吟子の情報は郷土館にあるだろう。途中に荻野吟子開業の地の看板が有ったので、ここで小休止。それにしても棒杭1本?
 郷土館は入場料300円。ま、リーズナブルかな。上限価格とも言える。4人家族で1200円、ぎりぎりの所だろう。規模としては様似町の無料の郷土館くらい、荻野吟子の資料が無ければ只にしたほうが良いだろう。
 で、来て良かったと思ったのは、実は荻野吟子と僕は丁度100歳違い。100年前の、それが男女の違いはあれ、生きざまを見たとき感銘を受けた。何故、瀬棚町が荻野吟子にコダワリ、ホームページにしたか、漠然と解るような気がする。それも先に書いたような「高い志」なのである。
 明治の時代にこれだけ写真が残っている女性も珍しいが、やはり書き記した歴史が圧倒的に少ない。「女がする日記というものを、してみんとてするなり」って時代から見ると封建社会の中で女性の地位は失われ、その延長であった萩原吟子の時代でも彼女自身が書き残したものは少ない。パンフレットの写真を見る限り表紙の若い頃の写真より数倍年齢を重ねてからの写真に風格がある。これは、自分の活動が根付いた自信と言えるのだろうか。
 気になる記述があって、荻野吟子は札幌でも開業していたらしい。それは明治36年、場所は中央区南1条西5丁目1番地。なんと、その向かいは、わが社の親会社の旧秋山愛生舘が当時開業してたはず。
 帰り際に学芸員のおばさん(って、こっちもおじさんなのだが)にいろいろ教えてもらう。今年荻野吟子の勉強会が瀬棚で有って、10月には札幌でも行われるとのこと。それより「自転車で札幌から来たんですかぁ」の一言が。ま、長万部までは車なんですが。
 不思議な町だなぁと思った。28年前の宿題の答を持って行ったら、あらたな宿題に出会った。それがまた、新たな僕と瀬棚町の関係を作るのかもしれない。
 最後に幼稚園の中にある萩野吟子の碑を教えてもらいそこに向かう。なんだ、さっきの棒杭の先に立派な碑があるじゃないか。それも今から20年以上前に有志の手で建立されたものが。
 日本海に面した瀬棚から先に進む町は無い。たぶん、この自転車旅行では2度と来ることは無いだろう瀬棚を後にしながら、自分の100歳先輩の荻野吟子が生きた北海道を改めて考えてみた。

今金(いまかね)町
 うーん、残念ながら時間が無い。役場に入るかなり前に(瀬棚から見て手前に)神丘って地域が有る。実は先の荻野吟子が再婚した年下の夫と共に入植したのがこの地域。キリスト教に入会していた人々が北海道の開拓に夢を持って入植した地域だから神丘と命名したのかもしれない。ここに荻野純子の養女によって建立された夫婦の墓があるらしいのだが、残念ながら時間が無いのでパス。唯一神丘の小学校で小休止をとる。考えてみると瀬棚の役場で昼食を採ってから3時間。そろそろハンガーノックになりそうなので、おにぎりを一つ食べる。
 今金の役場の前に着いたのは3時を少し過ぎていた。オランダ公園とか見所はあるのだろうけど、車のデポ地点までの時間を考えると役場での記念撮影だけで素道理。
 海岸線の町に多いのだけれど、昔海岸縁はニシン漁で栄えて、その後方部隊として農業中心に栄えた町が、いまは産業構造が変わって農業を中心に自立出来ている。残念ながら海沿いの町との間に生じた生産と消費の文化の違いが根強く、会い入れない奇妙な文化の壁を海岸沿いの町との間に持っている。そんな雰囲気を感じた。 これは岩内町と共和町の関係で感じたのだけれど、経済基盤が違うと文化も違うって感じがここ今金町でも感じた。
 例えば産炭地で言えば、岩見沢市と周辺町村に感じることで、万字炭坑跡地を極端な過疎のままほおっておいて、今の岩見沢市が有るってことは実際に自転車で走ってみなければ解らない。そこに人々の生活が有った跡なんか数十年で消えてしまう。そのためには、書き留めて語り継がなければならない。
 どうも、今金の町では歴史を感じなかった。語り継げるほど余裕がない程、今金開墾は苦労に満ちたものだったのかもしれない。残念ながらそこまで調べることは出来なかった。
 瀬棚には何か宿題が有ったような気がした、そして待っていたのは100歳先輩である荻野吟子の物語であった。最近は失楽園だか後楽園だか知らないが、作家の渡辺淳一の「花埋み」、NHKの「風雪」で描がききれなかった「高い志」に触れたような気がした。開拓の時代には自分を捨てて人のために尽くす志が多々有ったのだろう。考えてみると有島武郎なんかも北海道農学校時代にキリスト教に傾倒してる。アメリカの開拓時代もそれを支えたのはプロテスタントに代表されるキリスト教徒である。新天地で開拓に携わるには、精神的支えが必要になるが、その意味でもわずか100年前の北海道は仏教なんかでは無く、宗教としてはキリスト教の下支えが有ったのだろうか。これから、渡島半島のさらに南に向かうとその答えが有るのかも知れない。  日本は民主主義をヨーロッパに学んだが、実は北海道はアメリカに学び、そして開基100年のころから再びヨーロッパに学び始めたのかもしれない。
 自然を自分達の住みよい環境に変える時代、そして、整備された環境の中で次になすべきもの。このあたりの時代に北海道もさしかかっているのかもしれない。
自転車で回ってみると、道南は、短いながら北海道の歴史の蓄積された地域だと解る。
1998.05.23 本日の走行 105Km

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