北緯42度を越えて.七飯、函館、上磯、大野

コース概要
 前回の昆布館前の駐車場を利用して渡島半島が東西に分かれる両方の起点を確保するとともに、函館近郊の七飯(ななえ)、函館(はこだて)、上磯(かみいそ)、大野(おおの)の4市町を回る。
いよいよ渡島半島完全制覇も残すところ4回で終わりそうだ。今回は北緯42度を南に越えて北海道の南部北緯41度の地域に足を踏み入れる。
 渡島半島は函館から先は松前町につながる西方面と恵山町につながる東方面に分かれている。また、函館近辺は1600年代から既に松前藩の領地として開拓が始まった経緯もあり、当時の移動距離の短さから市町村の込み入った地域になっている。今回のコースも1市3町だけ回るのであれば60km以下の行程となる。これに、次の町、東の戸井(とい)町、西の木古内(きこない)町への車のデポ地点を捜すことが加わり80km程の行程が予想される。
いざ出発
 途中豊浦(とようら)から見た噴火湾は低くモヤがかかり、その上に抜けるような青空が広がり、モヤから頭を出した山々がくっきりと見えている。駒ヶ岳もクッキリと見えている。風も弱く絶好のサイクリング日和といえる。
 大沼、小沼を抜けてトンネルを下った所で休憩用の公共駐車場に駐車し、ここで自転車を組み立てて国道5号を南下する。

七飯(ななえ)町
 七飯あたりはまだアップダウンがあり、走りはじめて最初の5kmとしては少しキツイ。前から気になっていた後ろのギアチェンジの調子が悪い。ディレーラの調整が悪いのだと思い小さなドライバーを持ってきたので調整しながら進む。どうも、トップのギアで強く踏むとチェーン飛びのような現象が出るのだが、ディレーラーの調整だけでは解決しない。去年の秋から調子が悪い。
 あれ! なんかギアが変だ。ドライバーをギアとギアの間に入れると少し隙間がある。前3段、後ろ7段の21段変速のクロスバイクなので、チェーンもスリムタイプを使用している。これでチェーンと後輪ギアの間に数ミリのガタツキが有ると当然チェーンは正しくギアにかみ合わず飛ぶことになる。特に最も外側の一番小さなトップギアがずれが大きくチェーン外れを起こし易いのも納得できる。途中の自転車屋で緩んだギアと後輪車軸との締め増ししてもらおうと思いながら、去年来の原因が解ったことにほっとする。
 地図によると国立療養所(こんなもの、まだ国立で非効率的な業務をやる必要があるのかねぇ)に曲がる所に七飯の役場がある。実際にはかなり急な坂を登る途中に、レンガ風な作りの役場庁舎がある。奥には文化センターも同様な様式で建てられている。なんとも立派な庁舎である。この役場の先から「函館新道」が予定線と書かれているのだが、車の通行量から推測すると一部完成しているらしい。このまま坂を登り予定線を探ってみる。
 ここに来る途中の道路看板に「高速道路建設中」と書かれていたがこれは長万部まで伸びてきた北海道縦断道路と繋げるものを函館側から建設しているらしい。登りきった所から左は工事中で右は函館市内まで続いているようだ。高速道路を挟んで両側に上下線の一般道路を配置した設計になっている。ここからは七飯から函館に続く平野を見おろしながら進むことができる。函館の夜景を見ながら終着点を向かえる高速道路になるのだろう。
路側帯も広く、函館からサイクリングを始める人にはお勧めである。もっとも恵山を巻いて北上するのが一般的だとは思うが。

函館(はこだて)市
 今日は最高気温が22度(実際には20度までしか上がらなかった)で海を渡ってくる風が冷たく、半袖で汗をかきながらのサイクリングには少し気温が低い。長い下り坂を函館に向かって降りていくと体が冷えてくる。途中から「函館上磯線」に左折して函館空港方面に向かう。まず、戸井町へのデポ地点の確認である。
 それにしても函館市内を抜けるのは厄介である。札幌に住んでいると東西南北碁盤の目のような道路に慣れてしまうので、函館のように緩く曲がって交差する道には戸惑う。しかも、歩道が狭く必ずしも自転車通行可能ではなく車道を走れば路側の雨水桝のフタの格子が広く車輪がスッポリはまってしまう。さっき、函館新道でレーサーに乗った人が正面から来たが、レーサのタイヤではとても車道の脇は走れないだろう。
函館空港を左に見て海岸線道路にでる。国道278号線。先週走った砂原まで続く渡島半島の東を覆う国道である。次回のことを考えてできるだけ戸井町に近いところにデポ地点を見つけたいのだが、走っても走っても人家が途切れることが無くそれらしき駐車場も見つからない。このまま戸井町まで走ろうかと思い始めた戸井町から10km程手前で石崎漁港があり、この手前に小さいながら公共駐車場があった。まずは一安心。ここからUターン、函館市内に向かう。
 函館市内に入る直前に「啄木小公園」がある。函館は啄木関連の碑が多く、函館山には啄木一族の墓なんかも有ったはず。実際、石川啄木は北海道全域で生活していたのであり各地に活躍の痕跡がある。なにも函館の専売特許では無いのだが、どうも、温泉街「湯川」(ゆのかわ)の観光の目玉として記念碑があるのではないかと思う。実際、倶知安町の駅にはさりげなく啄木の記念碑があったりして、結構驚かされる。
僕がこの啄木小公園が好きなのは、ここから海岸線を通して見る湯川(ゆのかわ)の温泉街のビルがハワイのワイキキの浜辺の景色のパロディのように見えるから。たぶん、これは実際に見た人にしか解らないと思うが、ここから「今、ハワイです」とテレビ中継しても視聴者の半数は騙せると思う。
 解りずらい函館市街に入って役場での記念写真を撮る。さっきから気になっていたのだが、函館の町の雰囲気はなんか変だ。自転車を邪魔者あつかいして幅寄せしてくるタクシーとか、交差点で左折するのに自転車を巻き込みそうになる人とか自転車での走行に危険を感じる。それだけでは無く、信号無視するオバサンを2度も見てしまった。細い公園の横は駐車禁止なのに車がとまっているし、一時停止標識も守られていない。
実は同じように交通マナーが悪い地方中堅都市がある。帯広市である。で、共通することは回りの町村の面倒見が悪く、一人勝ちで広域で地域と言うか圏域のことを考える土俵で必ず自分の市が有利になるようにたち振る舞う。ま、それが函館の印象だと言ったらあまりにも印象批判だと思われるかもしれないが、たどり着いた市役所の正面玄関から駐車場まで厳重に鎖で囲まれているのを目にしたときに、的を外してないなと思った。町の雰囲気は実は休日の役場の使い方に出てくる。士別市などは公共駐車スペースとして解放しているのに加えて、市民の催し物にも積極的に利用されている。役場の駐車場を厳重に封鎖しているのは、石狩の当別町と函館市くらいなものではないだろうか。これがその土地の民度として読み取れるのが市町村巡りの楽しみでもある。

上磯(かみいそ)町
 函館湾を反時計回りに回って七重浜を上磯町へ向かう。実は今日の最大の目玉は七重浜の「洞爺丸慰霊碑」を参拝することにある。最近図書館で借りて読んだのが「洞爺丸沈没32年目の真実 福井(金編に圭)喜」(四海書房ISBN4-915629-13-9)。
当日(昭和29年9月26日)夕方、洞爺丸を青森から函館に運んだ船長である著者は運命の近藤船長にバトンタッチして船を降り、その夜洞爺丸は七重浜沖で遭難し1094名(1155名)の死者を出す事になる。その海難審判で投錨(錨を降ろして船を波に立てる)よりも蜘蹶(ちちゅう 海上航法で強風時、船首を風に向け、波浪に逆らわず漂うこと)すべきで有ったと主張することを国鉄当局から止められた経緯。そして、二度と事故を起こさないのが海難審判であり責任者追求(国鉄は自然災害であり不可抗力と主張していた)が目的では無いはずと書かれている。
 実はそれまでの僕の洞爺丸に関するバイブルは「洞爺丸はなぜ沈んだか 上前淳一郎」(文藝春秋)である。これは、フィクション的な表現が多く読み物的な面もあるが、大雪丸が投錨もせずに木古内沖に逃れ沈没を免れたことが気になっていた。当時の連絡船は洞爺丸、大雪丸、石狩丸、日高丸、第6青函丸、第8青函丸、北見丸、第11青函丸、第12青函丸、十勝丸、青森に羊蹄丸、渡島丸。
12隻の青函連絡船のうち10隻が函館湾にいたことになる。
沈没したのは、洞爺丸、日高丸、十勝丸、北見丸、第11青函丸の5隻。この5隻を合わせて犠牲者1430名はタイタニック号に匹敵する大惨事であった。しかし、洞爺丸以外の船は客が乗っていなかったこともあってか殉職した国鉄職員の存在すら人々の記憶に薄い。僕は投錨が良いとか悪いとかでは無くて、北海道で起こったこのような大惨事の記録を風化させないために、一度、慰霊碑を見ておきたかった。
 上磯町に入ってすぐに「洞爺丸殉難者慰霊碑」が有った。新しい供物が供えられ誰かが慰霊碑を維持しているようだ。写真を撮って帽子を脱いで黙祷。あまりにも尊い犠牲のあと国家事業として青函トンネルが着手され完成した一連の歴史を犠牲になった人々に報告したかったから。
ここは洞爺丸以外の他の船の犠牲者も奉っているようだ。良かった、洞爺丸だけが慰霊されているのでは無い。この碑が建立されたのが翌年の昭和30年5月。その頃は座礁転倒した洞爺丸がこの沖にまだ存在しただろう。除幕式はどのような情景だったのだろう。
 この慰霊碑の裏に小さな広場があり地面に書いた矢印でそれぞれの船が沈没した地点を指し示していた。洞爺丸はわずか350m先で座礁転覆したのだ。
七重浜の海岸線はコンクリートで護岸され少しの砂浜しか残っていないが、当時は道路までなだらかな砂浜だったらしい。残された写真とは比べものにならないほど海岸線は変化していた。ここだけは慰霊碑があるためか手が入らず、ウインドサーフィンと水上スクーターの保管庫になったいた。すぐ横にはスパビーチなんて人工海水浴場ができている。
 国道228号線をさらに進み上磯町の役場で記念写真。役場の看板である御影石と風化しつつある洞爺丸慰霊碑に時代の流れを感じる。
それにしても、漁業主体の上磯町は町並みから豊かさを感じる。何処にその秘密があるのだろうか。先ほど函館湾に長く伸びる橋が見えたが、これがヒントかもしれない。木古内へ向かうデポ地点発見のためもう少し国道228号線を西に向かう。
おお、大きな工場が。日本セメントの工場から海上に橋が伸びているのだ。地図を見ると峨朗鉱山が背景の山の中にあり、ここから「せっかい」が採取できるらしい。これをセメントに加工して船で積み出す施設がこの橋らしい。これが上磯の経済を大きく支えているのかもしれない。

大野(おおの)町
 さらに進むと潮干狩りが出来るような浅瀬があり、その横に数台の車が停められる公共駐車スペースがある。ここをデポ地点に確保する。ここから今来た道を戻り道々96号線を左折して大野町へ向かう。緩い追風を利用して30km/hで走るこのあたりには北海道の歴史としては桁違いに古い歴史がある。明治から数える市町村が多いのだが、このあたりは1600年代からの歴史がある。ここ大野町に水田発祥の地の碑がある。これなど松前藩から稲作の可能性調査を命じられて1700年代に着手したものである。
ほどなく大野町役場到着。ここに大野町の由来の看板がある。これって親切だと思う。役場を訪れるのは公務手続きの地元の人ばかりでなく、町外からのお客も居る。駐車場に車を停めて役場に入る前に目にすることができる。
 大野の名前は大きな野原が広がっていたからとか、アイヌ語に同じような音があるとか諸説あるが、1650年代には公文書に「大野」の名前が出て来るとか。また、北海道新幹線(ま、来世紀のものだが)の函館駅は大野町に作られるのが決定しているとか。そう言えば函館に大きく回り込むよりも大野町を経て大沼に抜けるほうが合理的かもしれない。この町は農業経済なのだろうか。役場の横のマルメロ通りは北海道で唯一地生しているマルメロを街路樹にした奇麗な道である。ここを通って出発地点の七飯に戻る。
この季節国道5号線の両わきには「いちご」の産直の店が出ている。車に自転車を積んで札幌では1パック500円程の「いちご」を300円で4パック購入する。これから農家の直売場にお世話になる機会(家族サービスね!)ことも多くなるだろう。
ひさしぶりの都会であったためか、どうも函館の町が気になった。
1999.06.19 本日の走行 81km

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