札幌村郷土記念館で明治の歴史に触れる

walkingの勧め

 しばらく自転車旅行は遠ざかっているのだが、一番大きな問題は自転車ごとヒッチハイクした標茶町訪問の悪夢。趣味の遊びで行っていたことが他人の世話になるってことがトラウマで中々自転車の旅に出かけられない。
 そんな折に体力増強を兼ねてオムロンの万歩計に出会う。デジタル万歩計は結構あるが、この万歩計は日別に自動計測したデータを蓄積し、パソコンに転送できる。別途有料だがパソコンからインターネットを経由してオムロンの会員制サーバーに歩数データを転送して全国各地のwalkinする人々と交流ができる。また、歩いて日本一周ってバーチャルな楽しみも提供してくれる。
 通勤時にバス利用をやめて地下鉄の駅まで歩くようにしたが、この程度では一日往復で6000歩がせいいっぱい。このペースだとバーチャル日本一周には3年の月日がかかる。で、週末に漫然と歩くのだが、これが通勤より歩数が少なかったりで、なんか歩くことに積極的になれる企画はないものかと考えていた。
 最初は自宅から区内の神社全部を訪問し参拝するなんてのを考えたが、4ヶ所しか無いので週末に訪れて簡単にクリア。その次に考えたのが札幌の地下鉄沿線を歩いて回る企画。これには土日の「ドニチカ・キップ」(500円で地下鉄乗り放題)が便利で、、そこそこ歩き始めている。
 で、その中で東豊線を歩いている時に地下鉄環状通東駅で「札幌村郷土記念館」の看板に出会う。

地下鉄内の地図で存在を確認

 歩くのが目的ではあっても、回りの風景を見ながら、そしてそれぞれの地下鉄駅のコンコースを抜けて一駅づつ足跡を伸ばしていく。東豊線は先週に福住駅までクリアし、若干時間があったので反対側の栄駅から2駅ほど歩いて先週の攻略を終えている。今週はその続きで東豊線を南に向かい歩き始める。
 環状通東駅から大きく右に地下鉄は曲がるのだが、その手前に逆に左に進むと札幌村郷土記念館がある。なぜまた、ここに? 素直が疑問である。札幌市の中心は現在市役所が立つ大通り西1丁目。ここを基点に札幌の街が開けたと思ってたので、なんで伏古川から丘珠、苗穂に抜けるこの土地に札幌村郷土記念館なんて施設があるのか不思議だった。
 疑問に思ったら即訪問。地下鉄駅から5分ほどのところにこの「札幌村郷土記念館」がある。

札幌市の最初は札幌村役場設置

 前庭にどこかで見たような銅像が置かれている。これって、名前は解らないがテレビ塔近くの創成川沿いに建立されている銅像に似ている。
 中に入ると郷土資料館的な展示で昔の農機具や玉葱発祥の地の展示がある。ま、これだけならどの地方にもある郷土資料館。かえって産炭跡地の郷土資料館のほうが機械の展示など多彩な展示が可能で、どうも農業だけってのは郷土資料館というより倉庫、納屋に近くでいただけない。ま、丘珠地区は今でこそ住宅地だが、一面玉葱畑だった時期がそう古い話でも無く、サッポロサトランドのような農業中心の地域故の郷土博物館なんだろうか。
 実はこの札幌村郷土記念館は昭和52年(1977年)に旧札幌村役場跡地に設置された。旧札幌村とは慶応2年(1866年)幕府が大友亀太郎をして北海道開拓農場の設置を命じた時に、大友亀太郎が石狩原野を開発農場地とし、サツホロと命名して伏古川流域の開拓に着手した土地なのだ。これが、札幌村、そして現在の札幌市の始まりとなっている。
 実は、昔は札幌開拓は明治2年の蝦夷地を北海道と命名し開拓使を設置し島義勇(しま よしたけ)が円山の上から東方を見下ろし現在の碁盤の目のような札幌を設計したのが最初と教えていた。現に島義勇(しま よしたけ)の銅像は札幌市役所1皆ロビーに展示されている。多くの人々は島義勇(しま よしたけ)が札幌開発の師と思っている(僕も思っていた)が実は元祖札幌開発は大友亀太郎によるのだ。
 娘に聞いてみると、小学校の頃、聞いたなぁその名前程度の記憶なのだが、現在の札幌市内の小学校の郷土史は大友亀太郎から始まっている。

札幌の最初の公共事業は大友堀

 実は名物おばさんと言っては失礼だが、学芸員のおばさんが熱心で、一枚の絵を前に説明してくれる。それが、創成川はその前に大友亀太郎が掘ったって絵の説明だ。
 測量によって現在の創成川の取水口から伏古川までは落差10m(この測量が江戸時代末期に可能だったのにも驚かされる)あるので、豊平川と伏古川を掘って結べば石狩平野全体を移動する水路網の一翼になる。合わせて、伏古(札幌村)の灌漑用水として豊平川を利用できる。(当時も今も豊平川は大きく東に迂回して石狩川に合流する。伏古近辺には大きな川は無い)その工事を幕府の援助を得て行ったのが大友亀太郎だ。
 現在の北4条、テイセンボールのあたりから伏古に向かって曲がって掘られていたらしい。その後、真っ直ぐに石狩湾を目指して付け加えられたのが現在の創成川になる。
 名物おばさんの説では、明治維新があと10年遅ければ、札幌市役所はここに建っていた。テレビ塔だってその横に建っていたかもしれないと、歴史にイフは無いと言うが面白い発想だと思う。
 最初の頃の大友掘は跨いで渡れる幅だったようだ。それが、現在の大通り公園あたりに札幌府を設置し水路による物流の要として拡張され、現在の南一条に創成橋が架けられた頃から創成川と呼ぶようになった。
 大友亀太郎の一番歴史に名を残したところは、平野に人力で掘った大友堀がのちに島義勇が現在の南一条で大友掘を跨ぎ、ここを基点に札幌を東と西に分ける区画をしたことだろう。何の目印も無い平野に大友亀太郎が設計した大友堀が唯一目印であった。これが南北に伸びていることを利用して島義勇は東西の基点としたのだ。
 当時の金で1万両を費やし、日々50名程の労働者を使って完成した大友掘。原野が広がる札幌の地に一直線に伸びた大友掘はどのように映っただろうか。

他にも貴重な資料が展示されている

 2階は文学関係と当時の生活を展示している。明治の時代に文学少女がトルストイに宛てた手紙にトルストイ自筆の返事が届いた。これが片隅に展示されてる。ま、亡くなる数年前の自筆の手紙なので、お宝鑑定団ならいかほどの価格を付けるだろうか。が、額に入れて無造作に壁に架けてある。
 当時の着物や農機具の展示よりも価値が高いと思うのけれど。
 階段を下りてくると最近の北海道新聞の切抜きが展示されてる。「大友亀太郎引越し」ななんと、前庭にある銅像は創成川(大友掘)に建てられた銅像を一時的に移設したものだったのだ。現在、創成川当該個所は川を暗渠にし、上を公園に、下を自動車用道路に改修工事が進められている。その工事の間だけ、ここに銅像を移すらしい。なんとなく、ここ札幌村郷土記念館の前庭に置いていくのが一番適切な気がする。

北郷通りが大友堀に沿っているのかな?

 札幌村郷土記念館を出て地下鉄東豊線に沿って西に向かって歩く。通称北郷通り。創成川とは直角に交わる道路だ。北13条あたりなので、大友亀太郎が掘った時はもう少し緩く左にカーブしていたのかもしれない。
 信号を渡ってキラキラ光ながら流れる川面を見ていると、ここを掘る計画を作った大友亀太郎のエネルギーが伝わってくる。北海道の農業開拓には二宮尊徳の系譜が流れてる。昔、自転車で十勝の豊頃町を訪れた時に「二宮親徳入植の地」なんて石碑も見た。
 全て農業生産を上げて北の大地を豊かな農業地帯にしようとの情熱を持って原生林に挑んだ人々の足跡だ。大友亀太郎も同じ系譜になる。函館で農業開拓を行い、やがて石狩平野の農業開拓を任される。そして現在の東区伏古川近辺に札幌村を設置し、10kmも先から水を引いて豊かな農業地帯を目指した。
 大友亀太郎自身は1869年、明治政府による北海道開拓使に全てを移管し北海道を離れていく。先の島義勇も結局は設計図を書いただけで実際の完成まで立ち会ったのでは無い。
 北海道の開拓と明治維新、歴史の流れによっては、今の札幌市は全然別な顔を持っていたかもしれない。いやいや、歴史にイフ(If)は無い。
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